「ホモ・ヒストリクスは年を数える」(9)~キリスト紀年を表す造語『西暦』~ 明治以降における西暦誕生のプロセス
平成に代わる新元号「令和」の時代が5月1日からスタートしました。元号は、日本だけでしか使われていない時代区分ではありますが、新聞やテレビなどで平成を振り返るさまざまな企画が行われるなど、一つの大きな区切りと捉える人が多かったようです。その一方で、元号に対して否定的で「西暦に統一したほうがいい」という意見も少なからず聞こえてきました。 そもそも、人はなぜ年を数えるのでしょう。元号という年の数え方に注目が集まっている今だからこそ、人がどのような方法で年を数えてきたのか、それにはどのような意味があるのかについて考えてみるのはいかがでしょうか。 長年、「歴史における時間」について考察し、研究を進めてきた佐藤正幸・山梨大学名誉教授(歴史理論)による「年を数える」ことをテーマとした連載「ホモ・ヒストリクスは年を数える」では、「年を数える」という人間特有の知的行為について、新しい見方を提示していきます。 第3シリーズ(7~11回)は「キリスト紀年を表す造語『西暦』」がテーマです。日本人はどのように「西暦」という言葉をつくりだしたのか。その背景に何があったのか。5日連続解説の3回目です。
西暦に落ち着くまでの表記の変遷
幕末から明治にかけて、日本が西洋文化の導入を本格的に始めると同時に、キリスト教への弾圧が緩和されるようになった。とはいえ、明治政府も1868年の五榜の掲示によって「キリシタン・邪宗門」の禁止を維持しており、これは1873年まで続いた。このため、キリスト紀年を表すうえで、宗教的な色彩を除外した表現を考える必要があった。 当時使用された表記としては、「西洋紀元」、「西紀」、「西暦紀元」、「耶蘇紀元」、「基督紀元」、そして「西暦」がある。一つ一つ説明してみよう。 「西洋紀元」という表記は、それほど多くない。これは、「西洋紀元とは何か」という歴史概念を説明するときにもっぱら使われたようである。例えば、喜田貞吉(1871~1939)は『国史之教育』(三省堂書店、1910)の最後の部分で、「日本の暦日を西洋紀元に引き当てる時の注意」と書いている。 「西紀」というのは、西洋紀元を省略したものである。これは、歴史の本で使用されることが多かった。例えば、田中萃一郎(1873~1923)は『東邦近世史』(東方協会、1902)第一章の中で「欧人通商の初期(羅甸民族)(西紀一四九八~西紀一五九五)」と書いている。この西紀という表記は、1950年代まで使用されており、坂本太郎(1901~1987)は『日本の修史と史学』(至文堂、1958)の中で、「正保元年西紀一六四四」という表記を採用している。 ところで、私自身は、年表記の場合、西暦ではなく西紀が本来の表記であると考えているので、田中萃一郎や坂本太郎の紀年表記法に敬意を払っている。しかし、なぜか不思議なことに、西紀という表記はその後、全く使用されなくなってしまった。 「西暦紀元」という表記も創作された。この表記が使われた初期のものとしては、武内義雄(1886~1966)『老子と荘子』(岩波書店、1930)がある。この本で武内は、老子の生きた時代を表現するのに「老子は西暦紀元前四〇〇年前後の人」と書いている。 「耶蘇紀元」という表記であるが、『三正綜覧』(内務省地理局、1881)の序文で、著者・塚本明毅(明治改暦にたずさわった暦学者)が、初めて使用している。耶蘇は、中国語でイエスと発音する。「切支丹」という表現を避けるために、最大限の注意をはらったことがうかがえる。タイトルの「三正」とは、太陽暦・太陰暦・回暦のことである。回暦、つまりイスラム暦は閏月を置かないので、太陰暦(正確には太陰太陽暦)と区別している。 この綜覧は、日本の年号・神武天皇即位紀元・干支を書し、その同年枠に中国年号・回暦・西洋紀元の3つの紀年法を記すことで、世界の年月日をシンクロナイズさせた日本で初めての著書だ。 「基督紀元」という表記を採用した最初の書物は、私がいろいろ見た限りでは、田中達『比較宗教雑話』(教文館、1909)の48ページに出てくる「仏教は果して基督紀元前にパレステナに伝へられしや」である。明治末年から大正時代に使用されることが多かった表記であるものの、それほど広範囲に使われた表記法ではなかったようだ。なお、「基督紀年」という表記の使用例は、私はまだ見たことはない。 最後に、これらの紀年表記の中で唯一、現在も継続して使用されている「西暦」がキリスト紀年の意味で使用された最初は、公刊図書の表題に限って言えば、1883年に出版された石田五六郎『西暦一千八百八十二年改正銃軍練法』のようである。ほかも探してみると、『動物学雑誌』に掲載された「欧米の研究紹介」の中で、「千八百九十一」という表記から、「西暦千八百九十二」のように頭に西暦という用語を付けるようになるのは、1892年の第39号以降であることが確認できた。