中島みゆきが独占告白「本当に星になっちゃった。でも星は消えないですから」言葉の師と尊敬する谷川俊太郎さんとの別れ、多大な影響を受け大学の卒論テーマにも選択
「音楽好きより言葉好き」
中島が谷川さんという存在に固執したのは、自分とのある種の共通点を見出したからかもしれない。『中島みゆき全歌集1987-2003』(朝日新聞出版)で解説を担当した、音楽評論家の田家秀樹氏が言う。 「みゆきさんが卒論のテーマに谷川さんを選んだのは、『私が歌う理由』に象徴されるように、多くの詩が“自分が歌いたいことを的確に言葉にしている”と感じ、尊敬の念を抱いたからなのでしょう。 誰にでもわかる身近な言葉で、心のひだを時に清らかに時に生々しく表現し、一方では強烈に読む者に問いかけることもある。みゆきさんの歌にも、そう受け取れるものが少なくありません。そういう意味では、谷川さんの影響を大きく受けていると言っていいでしょう」 大学卒業後の1975年、中島は『アザミ嬢のララバイ』で満を持してデビューを果たすと、同年12月に発売した『時代』が大ヒットし、一気にスターダムにのし上がった。シンガーソングライターとして作詞も作曲も手掛けた中島。特に『時代』は誰もが経験するだろう人生の苦境を歌った、普遍的な歌詞だ。これを23才の彼女が作詞したことで、天才と称された。その中島は当時、心の中では、谷川さんを強烈に意識していたという。 「谷川さんの詩は、人間の喜怒哀楽を大げさに表現せず、その根底にあるものを優しい言葉で包み込むようにして作られている詩が多いと言えます。それに対して、みゆきさんの歌の中には喜怒哀楽をストレートに表現した詩も少なくありません。谷川さんを言葉の師として尊敬する一方で、超えるべき存在だと感じていたのではないでしょうか」(田家さん) 東京都出身の谷川さんは、10代から詩作を始めると、1952年に処女詩集『二十億光年の孤独』を刊行し、弱冠20才で颯爽と詩壇にデビューした。親しみやすい詩体で、『朝のリレー』が国語の教科書に採用されるなど、日本を代表する詩人として活躍してきた。スヌーピーが登場するアメリカの人気コミック『ピーナッツ』シリーズの翻訳を担当するなどの横顔も持つ。 その傍ら、1963年に放送がスタートした国民的アニメ『鉄腕アトム』(フジテレビ系)の主題歌をはじめ、数多くの合唱曲の作詞なども手がけ、日本の音楽史にも多大な影響を与えた人物である。谷川さんの詩をもとに数々の合唱曲を作ってきた、作曲家の新実徳英さんが谷川さんの素顔を明かす。 「以前、谷川さんの2つの詩を合わせて1曲を作ることを谷川さんに提案したことがありました。まったく異なる作品でしたから、“それを組み合わせるなんて”と断られることを覚悟していたところ、あっさりと“いいよ”と。こちらは素晴らしい楽曲を作りたい一心でしたから、その気持ちを信頼して任せてくださったのでしょう。いろいろな表現の可能性を尊重してくださったのだなと感じました」 谷川さんを常に意識していた中島に対して、谷川さんもまた、中島の存在を気にかけていた。中島がデビューしてから6年後の1981年に刊行された谷川さんの対談集『やさしさを教えてほしい』(朝日出版社)で、2人は率直な意見を交わし合っていた。 《あたしの歌、あんまりランランランと愉しい歌って、ないんですよね。そういうのも書けるようになれたら、もっと私自身ね、人あたりが良くなるんでしょうけども、まだまだ、人に冷たいんですよね》 《人の悪口、いっぱい書いてるから》 《あたし、あんまり許容範囲が広くないんだろうな》 そうネガティブな言葉を使って赤裸々に打ち明ける中島に、谷川さんも興味を抱いたようだった。 《あなたの場合は、生きることが愉しいから歌をうたうというのとは、ちょっと違うみたいだね》 若き日の中島が、谷川さんからそう言葉をかけられてから約45年。その間に、中島は『空と君のあいだに』『糸』『地上の星』『銀の龍の背に乗って』『麦の唄』といったヒット曲を、次々に世に送り出した。その詩には、決して前向きな言葉ばかりが並ぶわけではない。谷川さんが言う通り、中島は《愉しいから》以外の理由で歌い続けてきたのだろう。