国民に報道されなかったミッドウェーの敗北…強調されたのはアリューシャン攻略の成功
開戦から5カ月。日本軍の快進撃は止まるところを知らない勢いであった。1942年5月7日、最後まで抵抗を続けていたフィリピン・マニラ湾に浮かぶ要塞島コレヒドールのアメリカ軍が、遂に白旗を上げた。次の標的となったのは、残存する米機動部隊であった。 フィリピンはシンガポール攻略とともに、日本軍の重要攻撃目標であった。アメリカ軍の一大拠点であるフィリピンを残しておくと、南方の油田地帯を占領しても、日本本土まで石油を運ぶことは不可能だ。この重大な任に就いたのが、本間雅晴(ほんままさはる)中将麾下(きか)の第14軍である。日本軍は、昭和16年(1941)12月22日から24日にかけルソン島に上陸。 ダグラス・マッカーサー大将を総司令官とする、フィリピン駐留アメリカ陸軍とフィリピン国防軍は、マニラを非武装都市宣言し、バターン半島へ撤退。これにより日本軍は昭和17年(1942)1月2日、首都マニラを無血占領している。この快進撃に東京の大本営は喝采を送ったが、米軍はその後もバターン半島からコレヒドール島に籠(こも)り、頑強に抵抗を続けた。結局、フィリピンの米軍を完全に制圧したのは、5月7日にコレヒドール要塞の米軍が降伏するまでかかってしまう。 これを大本営は、シンガポールが2月に陥落したことを引き合いにして「不甲斐ない」と、捉えたようだ。本間中将は同年8月には参謀本部附となり内地へ戻され、予備役に編入されてしまう。だが『写真週報』の昭和17年5月27日号では、要塞陥落を伝えるとともに、本間中将と米軍のウェーンライト中将との会見風景を掲載している。そこには健闘を讃える言葉はあるが、作戦完遂に時間がかかった、というような文言は一切見られない。 フィリピンでの死闘がまだ続いていた4月18日、16機のアメリカ陸軍B-25爆撃機による日本本土初空襲が起きた。狙われたのは東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸といった主要都市である。いずれも被害はごくわずかであったが、連戦連勝の知らせに沸き立っていた日本国民は冷や水を浴びせられた気分に陥る。この爆撃機は空母ホーネットに搭載され、東京から約1200km東方の海上まで進出。そこで日本各地に向け発進した。空母はすぐさま反転帰港し、爆撃機は空襲後、中国やソビエト領内へと向かったのだ。 この空襲に関しては、『写真週報』4月29日号で扱われている。敵のB-25爆撃機に関する詳しい説明があり、爆撃機でありながら空母からの発艦も可能なことまで解説している。さらに投下された焼夷弾も、細かく分析している。そして敵の空襲は失敗に終わり、被害は軽微であったと強調。とはいえ海軍にとっては、衝撃的な事件であった。 これを受け、山本五十六(やまもといそろく)司令官をはじめとする連合艦隊首脳部は、ハワイで撃ち漏らした米空母部隊を撃滅しておく必要性を、改めて痛感する。そこで発動されたのが、ミッドウェー攻略作戦であった。ハワイから北西に約1900km離れたこの島は、水も食料も満足にない、珊瑚礁でできたふたつの小島だ。 ハワイ島を攻略すれば、アメリカとの講話に持ち込めると考えていた山本長官にすれば、ミッドウェー攻略作戦は戦略的に大きな意味を持つ。さらに山本長官ら首脳部は、ミッドウェーにアメリカの空母機動部隊を誘い出し撃滅する、という思惑を持っていた。 そのため日本艦隊の目的は「ミッドウェーの基地攻略と米機動部隊の殲滅(せんめつ)」という、二兎を追うものになってしまっている。ところが現場を預かる南雲忠一(なぐもちゅういち)中将は、今回の作戦の目的は「ミッドウェーおよびアリューシャン諸島西部要地を攻略」と理解していた。 6月5日、空母を発艦した日本の攻撃機はミッドウェー島の飛行場を爆撃。帰還した飛行機が2次攻撃の準備をしていると、米空母発見の報が入る。ここで南雲長官は、インド洋での海戦でも行った兵装転換という愚を犯してしまう。しかも今度は敵の攻撃前に発艦できず、日本は開戦以来活躍していた空母4隻を、一気に失ってしまったのである。 こうして無敵を誇っていた空母機動部隊の主力が、一気に壊滅してしまった。これほどのニュースは他にないだろう。だが『写真週報』が、それを記事にすることはなかった。 ミッドウェー作戦と並行して行われることになっていた、アリューシャン西部諸島攻略は予定通り決行された。『写真週報』では、その作戦については、3回に渡って紹介しているのである。
野田 伊豆守