操縦席が見えるほど低く飛ぶ米軍機。4歳だった私は逃げることに精いっぱい。逃げて、飛行機が過ぎたらまた遊ぶ、の繰り返しだった【証言 語り継ぐ戦争】
■米盛司郎さん(83)鹿児島市田上台3丁目 1945年、私は4歳だった。戦争を思うと、「逃げた」光景が浮かんでくる。当時、鹿児島市易居町に30代の両親、姉1人と兄3人、2歳下の弟と暮らしていた。母のおなかには妹もいた。 母が臨月だったから、3月か4月か。空襲警報が鳴ったのだと思う。タンスや布団などの家財道具や貴重品をリヤカーと大八車に載せ、伯母の家がある伊敷に逃げることになった。学校に通っていた兄や姉はいなかったから、昼間だったのだろう。私は母が作った防空頭巾をかぶってげたを履き、荷台を押して歩いた。 国道3号は、同じように荷物を抱え、市街地から避難しようとする人たちでいっぱいだった。「後ろを見るな」。大人たちの声が聞こえた。とにかく迷子にならないよう必死だった。少しでも人混みを避けるためだったのだろうか。父は途中で甲突川の橋を渡ることを選び、みんなで対岸の細い道をひたすら進んだ。無事に伯母の家に着き、兄や姉も遅れて避難してきた。
疎開後も空襲は続き、1日に数回防空壕(ごう)へ避難する日もあった。市街地に向かう米軍機は川べりを低く飛んだ。ゴーッと大きな音がして、風で木の葉が大きく揺れた。ある時は、操縦席に乗っている人の姿まで見えた。まだ幼く、逃げることに精いっぱいで、怖さは分からなかった。逃げて、飛行機が過ぎたらまた遊ぶ、の繰り返しだった。 空襲で易居町は焼け野原になった。建物で残っていたのは市役所や当時の県庁、南日本新聞社、南日本銀行、山形屋くらいだったと思う。自宅があった場所にはバラックが立ち並び、知らない人が住んでいた。小学校に上がる前に伊敷から小川町に引っ越し、両親は青果店を始めた。 周辺ではまだ闇市が開かれていた。鹿児島駅が近かったため、作った米や野菜を売りに来た人たちが、店の畳のスペースでよく休憩していた。店に来た人とのおしゃべりや、街頭の紙芝居、静止画をスクリーンに映す「幻灯」が子どもの頃の楽しみだった。
【関連記事】
- 〈証言 語り継ぐ戦争~海軍航空隊通信兵㊤〉宇和島での訓練を終え宇佐海軍航空隊へ。先輩の特攻隊員を見送った後、基地はB29の大空襲を受けた。生き埋めになった私は死を覚悟した
- 〈証言 語り継ぐ戦争~海軍航空隊通信兵㊥〉「川崎、あれは落ちたよ」。零式三座水上偵察機の中央に座った隊員は、グラマンから火が上がるのを見たという。水面すれすれを機関銃で応戦し逃げた
- 〈証言 語り継ぐ戦争~海軍航空隊通信兵㊦〉米も金もない戦後。食糧増産を狙った干拓事業、誰もが希望に燃えていた。今でもコシヒカリが実る光景を見ると胸が一杯になる
- 「これからの時代、女にも学校が必要」…兄の勧めで進んだ女学校だが、勉強どころじゃなかった。知覧特攻隊に奉仕する毎日。250キロ爆弾を積んで出撃する若者を、何度も見送った。今も世界のどこかに戦死者がいる…生ある限り戦争の愚かさを私は伝え続ける【証言 語り継ぐ戦争】
- 見知らぬ土地で死ぬよりも家族と一緒がいい。子どもにこんな発想をさせる、それが戦争の狂気。そして東京に焼夷弾がふたたび降り注いだ【証言 語り継ぐ戦争】