操縦席が見えるほど低く飛ぶ米軍機。4歳だった私は逃げることに精いっぱい。逃げて、飛行機が過ぎたらまた遊ぶ、の繰り返しだった【証言 語り継ぐ戦争】
夜になると治安が悪く、両親は子どもたちが非行に走らないようスポーツを勧めた。私は長田中学校で野球を始めた。鹿児島玉龍高校時代は投手として甲子園に出場。その後も鹿児島鉄道管理局で選手や監督として携わり、野球は私の人生そのものになった。 ロシアのウクライナ侵攻やパレスチナ自治区ガザのニュースに映る子どもたちを見ると、当時の自分や臨月の母の姿が重なり胸が痛む。戦時中の記憶はわずかしかないが、それでも経験した一人として、今もなお世界で戦争が続いていることを残念に思う。 日本では、戦争を経験していない世代が増えた。若い人たちが戦争を知ろうとすることや、聞いた話をさらに語り継いでいく大切さを伝えたい。 (2024年7月28日付紙面掲載)
南日本新聞 | 鹿児島
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