1484人が犠牲になった対馬丸沈没から80年、悲劇忘れない…沖縄の小学生、遺体が漂着した宇検村の海岸で記憶の継承誓う
太平洋戦争中に沖縄を出港した学童疎開船「対馬丸」の沈没から22日で80年になるのを前に、沖縄県内の小学生15人が14日、鹿児島県宇検村の船越(ふのし)海岸を訪れた。沈没した地点に向かって黙とうをささげ、記憶の継承を誓った。 【写真】遺体が流れ着いた海岸で黙とうをささげる沖縄の児童=14日、宇検村の船越海岸
那覇市の対馬丸記念館の主催。児童は慰霊碑に花を手向けた後、多くの遺体が漂着した砂浜を歩き、犠牲者に思いをはせた。那覇小学校6年の玉城陽登(ひなと)さんは「こんなきれいな海に遺体が流れ着いたことが衝撃だった。自分にできる平和を実現したい」と話した。夜には遺族の守田アキさん(90)=奄美市名瀬=の講話もあった。 対馬丸は長崎に向かう途中の1944年8月22日深夜、米潜水艦の魚雷攻撃を受け十島村悪石島沖で沈没した。学童や一般疎開者ら1788人が乗船し、1484人が犠牲になったとされる。
南日本新聞 | 鹿児島
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