バスケットボール・正中岳城さん|生粋のキャプテンキャラが企業人として成長中<前編>
日本のバスケ界ではこの人の右に出る選手はいないだろう。ミニバスや中学・高校、アルバルク東京では10シーズンでキャプテンを経験。生粋のキャプテンキャラは行動や言葉で常にチームを引っ張り、チームメートを鼓舞してきた。 そんな彼のハイライトの一つには、2016年9月22日に行われた国立代々木競技場 第一体育館でのスピーチがあげられる。Bリーグの開幕戦、アルバルク東京対琉球ゴールデンキングスの試合後、記念すべき一戦を見ようと詰めかけた満員のファンの前で、テレビ、配信で観戦していた人々に向けて送られた、リーグのさらなる発展に向けた熱い思いを込め決意宣言だ。リーグを代表するキャプテン、正中岳城さんが発したメッセージは10年が経とうとしている今でも語り草になっている。 インタビューの前編では正中岳城少年がどのようにバスケに関わり、そして現在も奉職するトヨタ自動車へどのように入社していったのかをうかがっていく。 取材=入江美紀雄 撮影=須田康暉
ウインターカップ出場をきっかけに名門大学へ進学
――正中さんが生まれ育った地域はバスケが盛んで、そこで小学校5年生からミニバスケットボールチームに入り、本格的にバスケを始めたとうかがいました。その後、中学時代は全国大会出場を目指してチームメートと切磋琢磨してプレーされたものの、県内の地区予選で敗退し、高校進学の際はバスケ強豪校には入学しませんでした。 正中 高校は全国大会の常連ではなく、地元の県立明石高校に進みました。当時はプロもなく、バスケで食べていけるという感覚もなかったので勉強もしないと、と思っていたからです。中学時代に県選抜にも選ばれなかったこともあり、自分はエリートではないということもわかりましたし、もっとレベルの高い選手が強豪校に進むんだと感じていました。「頑張っても報われないことがある」。社会に出れば多くの人が経験する“壁”ですが、スポーツをしていると子どものころからその経験ができるとも言えますね。 ただ、進んだ学校では、インターハイやウインターカップ出場は難しい目標でもあったので、兵庫県の国体チームに入って全国大会に出場することを目標にしていました。国体は4年に一度、全都道府県チームが出られる仕組みになっていて、ちょうど僕らが3年の時がその順番で。運良く国体チームにも選ばれたことで、高校時代の目標の1つを達成できたのです。 秋に行われる国体に備えて、総体県予選で敗退後も進路のことは横に置きながら、部活動にも励んでいました。そんなとき、関西の大学から声を掛けていただいて願書を出したのですけど、書類審査で落ちてしまって。それならクラスメートと同様に地方の国立大学に進もうかと気持ちを切り替えたのです。 このような経緯もあって、部活は引退せずに続けており、高校生として最後の全国大会、ウインターカップ出場を目指して、兵庫県予選に向けて練習もしていたのです。そうしたらあれよあれよと勝ち上がってしまい、全国の切符を手に入れました。実は推薦で進もうと思っていた大学の2次面接が予選の準決勝の日だったのです。仮に書類審査を通っていたらウインターカップの本大会に出られなかったかもしれませんね。 ――正中さんのキャリアを振り返ると、大学バスケ界の名門、青山学院大学に進学されたことで、その後の現役生活が大きく変わったと思います。 正中 青山学院大への進学は兵庫県の強豪校の監督の紹介がきっかけです。その先生から僕のビデオを青山学院大の長谷川健志監督に送っていただき、その後、面接と小論文の試験を受けて、なんとか入学できることになりました。ひょんなことからいろいろな扉が開いて、その掛け合わせの偶然というか、導かれるように青山学院大に決まりました。 ――青山学院大と言えば全日本大学バスケットボール選手権大会(インカレ)で優勝するなど、全国的にも強豪チームの一つです。地元から東京に出ていくなど、いろいろな環境の変化に慣れることも大変ではありませんでしたか。 正中 やっぱり大変でした。初めて練習に参加して、想像はしていましたが、レベルが違うなと感じました。体つきも違います。でも、「やれないレベルではないな」「一つずつ課題をクリアしていけば」とも感じて。身の程知らずではなかったと思うのですが、ある意味プレッシャーもなかったので、少しずつ馴染んでいけたと思います。 ――青山学院大は一般の学生と体育会系の学生と同じように扱う――いわゆる体育会系の学生にも厳しい学校だと聞きます。 正中 はい。学校によってはスポーツ推薦の学生を支援してくれるところもありますが、青学はもう塩(笑)。普通の学生と変わりません。それでも練習環境は抜群に良かったと思います。ちょうど相模原キャンパスができたころで、設備は素晴らしかったですね。ただ、だからって単位がそれで取れるわけではないですし。夜は遅くまで練習、トレーニングメニューもハード。その中で一般の学生と同じように授業を受けていました。親元を初めて離れて、しかも東京で一人暮らしをする。多感な年頃ですから誘惑も多かったのですが、手を抜くことなくやり抜いたことは良い経験でした。