新5000円札の「顔」、日本の女子教育にすべてを注いだ津田梅子の人生
学校の教科書で習う偉人たちのほとんどは男性偉人。しかし、日本の政治史に変化をもたらす活躍をした女性偉人も多数存在しています。そんな日本の歴史上の〝ヒロイン〟ともいえる偉人の活躍について紐解いていきましょう!【歴史人Kids】 現在の五千円札の顔といえば樋口一葉(ひぐち いちよう)。20年前の2004年に登場したとき、初めて女性が「紙幣(しへい)の顔」になることで話題を呼びましたが、2024年7月から登場する新しい紙幣でも、女性の津田梅子(つだ うめこ)が5千円札に印刷されることが決まっています。 一万円札の渋沢栄一(しぶさわ えいいち)、千円札の北里柴三郎(きたさと しばざぶろう)とともに気になるこの人物、いったいどんな人だったのでしょう? ■武士の家庭で6歳まで。アメリカ行きは姉の代わり? 津田梅子が生まれたのは、元治元年(1864)12月3日。ちょうど江戸から明治時代へと時代が切り変わりつつあるころでした。父の津田仙(せん)は下総(しもうさ。今の千葉県)の武士・小島家の四男。母の津田初子は、幕臣(ばくしん)だった津田家の二女。仙が津田家に婿(むこ)入りして、初子との間に生まれたのが梅子でした。 五男七女という子だくさんで、梅子は二女です。初子は琴(こと)や三味線(しゃみせん)などが得意で、梅子にも踊りを習わせていたそうです。 梅子が3歳のとき、父の仙は福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)らとアメリカへわたった経験があり、これがのちに梅子を渡米させる大きな理由とも考えられます。そして明治4年(1871)、政府がアメリカへ派遣する岩倉使節団(いわくら しせつだん)に女子の留学生を加えるという話が出たので、仙はまだ6歳※の梅子を応募(おうぼ)させます。※当時の満年齢(数え年齢では8歳) 梅子によると、最初は姉の琴子(ことこ)を行かせようとしましたが、琴子はイヤがりました。話を聞いた梅子は自分で「行きたい」と希望したそうです。 使節団は総勢107名でしたが、このうち梅子のほか4人の少女が留学生に選ばれました。上田悌子(うえだていこ)16歳、吉益亮子(よしますりょうこ)14歳、山川捨松(やまかわすてまつ)11歳、永井繁子(ながいしげこ)10歳。梅子は最年少の6歳。女性はこの5人だけでした。 当時の日本では、女性は10代で結婚するのがあたりまえでした。10代で母親になることも多く、いつ帰って来られるかもわからないため、子どもばかりになるのも仕方ないといえます。 アメリカへわたった梅子は、ワシントン近郊のジョージタウンに住むランマン夫妻の家にあずけられました。ランマン夫妻の家は裕福な家庭で、梅子を実の娘のようにかわいがり、教育しました。 現地の学校の教育を受け、アメリカの生活や文化にもなじんだ梅子は言葉も動作もアメリカ人のようになって成長。そして11年後の明治15年(1882)11月、帰国の途につきました。しかし、18歳で帰国した梅子はカルチャーショックを受けます。 日本語や日本の暮らしの作法などをすっかり忘れ、家族ともコミュニケーションがとれなくなったのです。まだ幼い日に海を渡り、日本よりアメリカ暮らしのほうが長くなったため、無理もないことといえます。 しかし、ランマン夫妻から「アメリカへ戻ってきなさい」といわれても梅子はことわります。「私は官費(かんぴ=国のお金)で留学したのだから日本で努力します」と言いはったのです。この姿勢は生涯、変わりませんでした。 梅子はアメリカに比べての日本人の女性の生き方を窮屈(きゅうくつ)なものと感じました。そのため、男性と同等に社会で力を発揮(はっき)できる女性の育成をめざすようになります。自分が留学でえた知識を自分だけのものにするのではなく、多くの日本人に広めたいとねがったのです。 ■二度目のアメリカ留学、ヨーロッパ訪問 帰国の4年後、梅子に出世の機会をあたえたのは伊藤博文(ひろぶみ)でした。伊藤は岩倉使節団に同行したひとりで、この明治18年(1885)に初代の内閣総理大臣(そうりだいじん)になった人です。梅子は、伊藤邸で英語や西洋式マナーの家庭教師を頼まれ、通訳やピアノの指導などもおこないます。その後、華族(かぞく)女学校の英語の教授もつとめました。 明治22年(1889)、梅子は自分自身の学校をつくるという夢を実現させるため、再度アメリカ留学に出ます。ブリンマー大学で生物(せいぶつ)学を2年半まなび、イギリスの学術雑誌に論文がのるほど成果をあげました。大学からは研究を続けてほしいとねがう声もありましたが、梅子は日本に帰国しました。 帰国したあとは再び華族女学校など複数の学校で教え、またヨーロッパ訪問ではナイチンゲールとの面会も実現するなど、多方面から多くの刺激を受けました。 ■最後まで「日本のため」に働いた梅子の晩年 明治33年(1900)、35歳の梅子は東京に「女子英学塾」(えいがくじゅく)をひらきました。現在の「津田塾大学」(つだじゅくだいがく)の前身です。生徒10人からのスタートでした。 梅子は世界に目を向けられる人間を育てるという理想を掲げるのと同時に「英語だけに熱中するばかりではなく、視野(しや)の広い女性になるように」と、つねに生徒に言っていました。その教育方針はきびしく、男子と同じレベルの教育がほどこされ、並の勉強ではついて行けないといわれたほどでした。 ただ、いつも和服姿で教え、教壇をおりた梅子は明るくて良く笑う人だったといいます。集められたお金はすべて学校のために注ぎこみ、自分自身は昔の日本人らしい質素(しっそ)な生活だったようです。 彼女は、外国人ではなく日本人女性が自分のあとを継(つ)いでほしいと願っていました。それは外国のためではなく、日本のために働きたいという姿勢からで、はじめから一貫(いっかん)したものでした。 その後、無理がたたってか梅子は体調をくずして入院をくりかえすようになります。大正8年(1919)に塾長をやめ、10年後の昭和4年(1929)に64歳でなくなりました。梅子は独身で子どもがいませんでしたから、おいの津田眞(まこと)を養子にむかえています。また学校は教え子で教頭の星野あいが継ぎました。 梅子が世を去ってからまだ100年もたっていませんが、その頃にくらべると、日本人の生活スタイルは大きく変わったといえるでしょう。会社を経営する女性や、子育てをしながら働く人も少なくないように、とくに女性の生き方や価値観(かちかん)が大きく変わったことは確かといえます。 梅子がこの令和の日本を見たら、喜ぶでしょうか。うらやましがるでしょうか。それとも、がっかりするのでしょうか。いずれにしても、いまの社会があるのは梅子をはじめ多くの先人(せんじん)たちが努力したおかげということを忘れないようにしたいものです。 ※この記事は【歴史人kids】向けの内容です。
上永哲矢