中日・落合GМが71歳の明大野球部コーチ・松岡功祐にかけた電話の中身
【連載⑫・松岡功祐80歳の野球バカ一代記】 九州学院から明治大学へ入学。そしてかの有名な島岡吉郎監督の薫陶を受け、社会人野球を経てプロ野球の世界へ飛び込んだ。11年間プレーした後はスコアラー、コーチ、スカウトなどを歴任、現在は佼成学園野球部コーチとしてノックバットを握るのが松岡功祐、この連載の主役である。 【写真】松岡功祐が選手寮で面倒を見た高橋周平 つねに第一線に立ち続け、"現役"として60年余にわたり日本野球を支え続けてきた「ミスター・ジャパニーズ・ベースボール」が、日本野球の表から裏まで語り、勝利や栄冠の陰に隠れた真実を掘り下げていく本連載。今回は、明大野球部コーチの松岡にかかってきた、中日・落合GМからの電話で始まった"NPB移籍劇"の顛末と、コーチ兼選手寮館長だった松岡が考える「伸びる選手/伸びない選手」の条件を聞く。 * * * 落合博満が中日ドラゴンズの監督に就任したのは2004年。指揮をとった8シーズンのうち4度のリーグ優勝を飾り、2007年には53年ぶりの日本一になった。 その間の成績は629勝491敗30分、勝率は.562だった。名将の名をほしいままにした落合は、2013年のシーズンオフからドラゴンズのGM(ゼネラルマネージャー)を務めていた。 ドラフト候補が複数いた明治大学野球部の視察に訪れた落合が目をつけたのが、コーチをしていた松岡功祐だった。 「2014年の9月だったでしょうか。落合さんから電話がかかってきて、『もう一回ユニフォームを着る気持ちはありますか?』と言われました。僕は71歳になっていましたけど、体は元気だし、やる気もある。『やりたいです』と即答しました。ただ、明治大学で指導をしていましたから、『正式なお返事をお戻しするのに1日だけください』とお願いしました」 松岡はすぐに、明治大学野球部の善波達也監督に話をした。 「次の日、ドラゴンズからオファーをもらったことを話したら、善波監督は驚いていましたが、すぐに『ぜひ受けてください』と言ってくれました。『落合さんは山崎福也(北海道日本ハムファイターズ)を見に来て、松岡さんを取っていった』と、明治では笑い話になりました」 常識に縛られない落合の行動力が生んだ〝移籍劇〟だった。 2015年2月に72歳になったばかりの松岡は、ドラゴンズの二軍育成コーチ兼選手寮である「昇竜館」の館長となった。 8年ぶりにNPB(日本野球機構)の球団復帰を果たした松岡が当時をこう振り返る。 「中国の選手や大学生と比べると、プロ野球選手はまず体が違います。プロの食事はいいので、高卒でプロになった選手でもすぐに大きくなる。寮もグラウンドも、野球に専念できる環境が素晴らしくて、『プロ野球はやっぱりいい世界だな』と思いました」 ■才能に恵まれながらも大成できない選手