考古学関係者に衝撃与えた炭素14年代測定 歴博を退職した藤尾慎一郎さんが振り返る稲作開始時期めぐる21年前の発表
「ウソやろう」が「もしかしたら」へ
稲作伝来が500年早まる-。2003年5月19日、国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)の発表は、考古学関係者たちに衝撃を与えた。「最初に測定結果を聞いた時は『ウソやろう』って。しかし、それが3回続いて『もしかしたら』と考えるようになりました」。炭素14を使った年代測定をした歴博研究チームにいた藤尾慎一郎さん(65)は振り返る。 稲作の開始時期は弥生時代の始まりとなる。それまでは土器と一緒に出土した鉄器などを基に紀元前5世紀とされてきた。一方で、紀元前10世紀とした歴博の調査は、北部九州の土器に付着した炭化物を分析したものだった。歴博の発表直後より「考古学の分析データと合わない」と、疑問の声が噴出した。特に日本列島における水稲稲作開始の地で、長い研究の蓄積があった北部九州の関係者から強い反発があった。 「弥生時代の開始の問題は九州の考古学者の独壇場という雰囲気が強かったにもかかわらず、九州大出身とはいえ、関東にいる研究者が関わったことが納得いかないということがあったのではないか。加えて、最初の発表が学会ではなく、記者会見だったことが余計に火に油を注いだ」 当初は受け入れられなかった「歴博年代」だが、研究者の間でも少しずつ理解が広まった。反発が強かった九州でも2017年に宮本一夫九大教授=当時=が学会で炭化米の炭素14を分析し弥生時代の始まりが紀元前9~前8世紀だと発表した。 その認識は一般にも広まりつつある。昨年度発行された山川出版社の高校歴史教科書の改訂版では水稲耕作の始まりが紀元前8世紀頃と表記された。執筆者の設楽博己・東京大名誉教授は「現在も論争は続いているが、おおむね紀元前10~前8世紀で学界の評価はかたまりつつある」と同社発行の小冊子に記している。 100~200年の違いはあるものの、炭素14による年代測定は認められつつあるようだ。藤尾さんは「考古学の世界では実験で検証ができない以上、類例が増えることでしか確実性が増さない。時間は必要」と言う。 □ □ 福岡市出身の藤尾さんが弥生時代に興味を持ったのは中学生の時、デパートであった「奴国展」を見てからだ。広島大、九州大大学院で考古学を学んだ。同大助手を経て1988年3月から歴博に移り、この3月で定年退職した。35年余の在籍について「多くの分野の自然科学研究者と学際的な研究を進めることができ、考古学の未来を見たような気がする」と総括する。 退職前の2月に一般向けの著書「弥生人はどこから来たのか」を出した。炭素14だけでなく、1年単位で年代を測り気候も再現できる酸素同位体比年輪年代法、人骨のDNA分析などの記述が前半に並ぶ。理系分野の分析手法にも積極的に関わってきた研究者としての歩みを物語るようだ。 同書では、水稲稲作は列島各地で時期差だけでなく受容の在り方にも違いがあるとする。最初に受け入れた玄界灘沿岸は朝鮮半島の「青銅器文化人によって文化複合の一環として持ち込まれた」のに対し、その他の地域では「縄文社会が自らの枠組みを崩さない範囲内で穀物を受け入れて栽培を始めた」。 時代表記についても問題提起した。縄文時代は「森林性新石器時代」とした。続く弥生時代を、玄界灘沿岸地域は「初期青銅器時代」と「初期鉄器時代」、九州東部から関東は「草原性新石器時代」と「初期鉄器時代」と区分、各時代が始まる時期も地域差がある。その理由を「弥生時代は土器が基準で設定された時代。稲作の始まりを指標にするとやはり無理が生じる」とする。 40年前、後輩の学生に「考古学は昨日捨てられた吸い殻も対象とする」と説いた。その気持ちは変わらない。ただ自らが対象とする先史時代は簡単ではない。「現場に落ちている物的証拠に対し、従来通りの『捜査』だけでは真実に近づくことはできない。だから科学的捜査が不可欠だ」 今後の研究テーマは「DNAと文化」の関係。「やはり稲作開始時期が面白い。各地の状況を核ゲノムとともに解明していきたいです。特に今は佐賀平野です」。「科学捜査」を活用して日本の考古学に大きな一石を投じた研究者が、次はどんな石を投げるのか、楽しみだ。 (古賀英毅)