【ヤバい総理大臣】 泥酔して「民間人を死傷」させた黒田清隆 「妻を殺した」の噂は本当なのか?
10月、自民党総裁選に勝利した石破茂総理。改めてその経歴や人物像に注目が集まっているが、ここでは歴史上の総理大臣のエピソードをとりあげたい。開拓使長官として北海道を「酪農王国」にするなど数々の功績をあげている第2代・内閣総理大臣の黒田清隆は、酒乱で有名で、なんと「酔っ払って妻を斬り殺した」という報道までされているのだ。どういうことなのか、見ていこう。 ■北海道を「酪農王国」にした功績者なのに… 本当は極めて優秀な役人であり、第2代・内閣総理大臣にまで上り詰めた政治家だったのに、酒にまつわる大失敗談が多すぎて人気が低迷している黒田清隆。 彼の評伝としては昭和52年(1977年)の井黒弥太郎氏による『黒田清隆(人物叢書)』(吉川弘文館)を代表に数点が確認できるだけ。黒田を主人公とした小説もあまり見当たらないというありさまです。 北海道が今日のように「酪農王国」となり、われわれが美味しくて安全な国産の乳製品を日常的に摂取できるようになったのも黒田が開拓使長官を務めていたからなのですが、そうした功績を「無」にできるほど、本当に彼の酒癖は悪かったのでしょうか。今回は、黒田にまつわる酒のエピソードをいくつか紹介しましょう。 黒田の不人気を決定付けたのは、23歳で亡くなった妻・清(きよ)の死因が公的には「肺病」だったにもかかわらず、本当は泥酔した黒田が彼女を斬り殺したのだという明治11年(1878年)の新聞報道です。 ■西郷隆盛の弟分だったせいで、長州閥などから狙われた? 薩摩藩の下級藩士として生まれた黒田は、若くして西郷隆盛に才能を認められて以来、長い間、西郷隆盛の弟分的存在でした。「妻を斬り殺した」という新聞報道は、西郷が明治新政府に不平士族たちと反旗を翻した「西南戦争」が終結した直後のものです。 よって、酒乱で知られ、行動をとがめやすい黒田から追い落として、薩摩閥の勢いを削ごうとした(長州閥などの)勢力による陰謀だったのではないか……とも疑われる一幕ではあります。 しかし、黒田の大先輩で、当時の明治新政府の重鎮・大久保利通が、「黒田は同郷だから昔からよく知っている。彼はそんなことはしない。私を信じてくれ(要約)」などと言い出し、その迫力は黒田処罰派だった伊藤博文や大隈重信を黙らせてしまうほどだったのですね。 結局、薩摩閥に属する大警視(現在の警察庁長官)・川路利良が妻の墓をあばき、「殺人事件ではない、病死だ」という検視結果を発表したのに、なぜか逆に「まともに検視していなかった」「薩摩閥内でかばい合っている」という批判が高まりました。 大久保利通も黒田をかばったことが裏目に出て、この事件の2ヶ月後の同年5月、「紀尾井坂の変」で惨殺されてしまっていますが、黒田は北海道開拓長官を辞任せずに続けられました。黒田による北海道開拓成功の歴史は、大久保利通の血と犠牲の上に成り立っているわけです。 ■泥酔して大砲を発砲、民家に死傷者も… 「西郷に続き、大久保まで失った心痛の黒田は酒量を増やしていった」ともいわれますが、それは間違いですね。この「妻殺し疑惑」より2年前の明治9年(1876年)7月30日、北海道開拓長官として「玄武丸」という軍艦を与えられた黒田は、大砲を発砲。 しかし実戦演習中にもかかわらず泥酔していたので狙った岩ではなく、民家に命中して大爆発。死傷者まで出しているのです。しかもこのとき、黒田は罰金100円を船長に(!)課し、船の監督から徴収した40円(当時の月給をもとに換算すると、現代の100万円前後か)を被害者遺族に「埋葬料」として渡してすべてを収めようとしたことで、大炎上したのでした。 要するに黒田の「妻殺し疑惑」とは「酔って大砲を打って、他人を殺すような男だから、妻を殺してもおかしくない」という民意のあらわれでした。しかし……「日本人は酒のあやまちに甘い」とよくいわれるのですが、こんな黒田が約10年後、内閣総理大臣の椅子に座ったのにはさすがに驚きを禁じえません。 画像出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
堀江宏樹