【阪神 火の玉ルーキーズ】育成4位・川崎俊哲 地元・能登半島を襲った地震 背中押してくれた父の言葉
阪神が今秋ドラフト会議で指名した9選手のこれまでの足跡を、「火の玉ルーキーズ」と題して振り返る。育成4位の川崎俊哲内野手(23=日本海石川)は最短での日本野球機構(NPB)入りを目指すため独立リーグで技術を磨いた。「虎の穴」で出会った恩師の存在と、今年1月1日に発生した能登半島地震の経験が幼少期からの夢を大きくさせた。(杉原 瑠夏) とにかく俊哲は屋外で遊ぶことが大好きだった。母・美幸さんは幼少期を回想。「凄く元気で活発な子。やんちゃでしたけど、手はかかりませんでした」。当時から野球は身近な存在だった。6歳年上の兄・公一朗さんが先に野球を始めていたこともあり、物心が付く頃には両親と一緒に兄の練習に付いて行っていた。その影響を受け、自然の流れで野球を始めるようになった。 大屋小1年で大屋クラブに入部した。小学3年から投手に加えて二塁、遊撃でもプレー。輪島中時代や、輪島高でも投手と内野手の“二刀流”で活躍していた。しかし甲子園の土を踏むことはできなかった。その悔しい経験が幼い頃からの夢を大きくさせた。「絶対にプロ野球選手になりたい」。美幸さんは大学への進学を勧めるも、既に俊哲の心は決まっていた。「最短でNPBに行ける可能性が高い独立へ進みたい」。当時もまだ投手を続けていたものの、より自信のあった遊撃一本でBC石川(現日本海石川)の門を叩いた。すべては最短でのNPB入りを目指すための選択だった。 しかし夢への道のりは想像以上に険しかった。ドラフト会議での指名漏れは続き、月日だけが流れた。気がつけばチーム内でも古株になっていた。「在籍1年目の選手が、すぐにNPBに行ったりして、歯がゆい気持ちはあったと思う」。当時、美幸さんは苦しむ息子の姿に胸を痛めていた。そして入団5年目を迎えた今年、俊哲の心は大きく揺れ動いていた。 「兄と、僕の友達の3人で家の近くの公園で野球をしていた時に起こったんです」 1月1日の午後4時10分だった。能登半島地震が発生。帰省先の地元で激震に襲われ、急いで高台に避難した。しかしライフラインは完全に止まり、数多くの建物が倒壊。「地元がこんな状態なのに。自分は野球を続けていていいのだろうか…」。当然、野球に打ち込める環境ではなかった。自問自答を繰り返していた俊哲の背中を押したのは父・哲史さんだった。「こっち(輪島)のことは大丈夫だから、おまえは野球を頑張れ」。この言葉でNPB入りへの思いはさらに増した。覚悟を決めた俊哲は傷だらけの故郷を後にした。 「野球をやりたくてもできない環境の友達もたくさんいた。自分はやれる環境にいる。だから頑張らないといけない」 運命的な出会いもNPB入りへの後押しとなった。阪神OBの岡崎太一氏が今季から日本海石川の監督に就任。捕手目線の指導を受けたことで打撃にも磨きがかかった。「岡崎監督とは本当にたくさんの話をさせてもらった。本当に感謝しています」。恩師や両親に支えられ、幼い頃からの夢がかなった。美幸さんは成長した愛息の姿に目を細める。 「たくさんの方から“輪島に明るいニュースをありがとうございます”って言ってもらうんです。本当にうれしいです」 輪島を、石川を、北陸を元気にする――。復興への道のりは長い。「輪島には18年間住んだ。本当に恩を返さないといけない場所。活躍して、少しでも明るくなって勇気づける。輪島が元気になれるように頑張る」。故郷の思いを背負う若虎には甲子園で活躍しなければいけない理由がある。=終わり= ◇川崎 俊哲(かわさき・としあき)2001年(平13)5月2日生まれ、石川県輪島市出身の23歳。大屋小1年時に大屋クラブで野球を始め、輪島中で軟式野球部。輪島では甲子園経験なし。卒業後に日本海石川(当時はBCリーグ所属)入団。遊撃手を務める。1メートル74、82キロ。右投げ左打ち。