報道のエキスパート・笠井信輔が語る。『ミッシング』があぶり出す、テレビマンの葛藤とマスコミのリアル
石原さとみが「どんな役でもいい。一緒に仕事がしたい」と切望してから7年越しに実現した吉田恵輔監督の新作『ミッシング』(5月17日公開)。これまでと同様に監督自らオリジナル脚本を執筆、“幼女失踪事件”を軸に複眼的に現し世を捉え、観る者を沈思黙考させるヒューマンドラマだ。ある日突然、事件へと巻き込まれた母親の森下沙織里(石原)は愛娘を懸命に捜し続けていくなか、自罰の意識、夫婦間の温度差、マスコミの報道、SNSでの誹謗中傷などによって、いつしか「心」を失くしてゆく。 【写真を見る】報道と映画のエキスパート、笠井信輔が『ミッシング』から感じたこととは? さて、一足先に試写で本作と出会い、激賞する“映画の見巧者”は多いが、笠井信輔もその一人。フジテレビのアナウンサー時代、報道、情報番組を30年以上にわたって担当し、フリーに転身してからも映画と報道のエキスパートである笠井が、(劇中のマスコミ描写も含め)感じたことを独自の目線で“体験的”に語ってくれた。 ■「本作から、報道マンに対するエールを感じました」 「率直にまず、深い感銘を受けたことを伝えたいです。観ている間、ずーっと胸を強く締めつけられ、そして観終わっても、心にのしかかる重荷のようなものからいつまでも解放されない作品でした。誰もが賛辞を贈ることでしょうけれど、母親として過酷な境遇に耐える沙織里役の石原さとみさんがすばらしい!全篇止むに止まれぬ感情の発露でこちらの臓腑を抉ってくるのですが、決してオーバーアクションにはならないんですよ。吉田監督はこれまでも、例えば『ヒメアノ~ル』で森田剛さんにサイコパスな殺人者を、『神は見返りを求める』では岸井ゆきのさんに底辺YouTuberの役を授け、新生面を引き出してみせました。どの作品でも演者を覚醒させる監督なんですね。石原さんはお子さんを出産したあとの復帰作。子どもを持ったことでより深い芝居になったたことは間違いない。また、沙織里の夫役の青木崇高さんも見事で、共に精神状態がギリギリでの複雑な関係性を体現されていた。演出やスタッフワーク、キャストの皆さんの演技も含め “映画自体の力”なのですが、個人的にコミットする内容があったことも大きかった。私も、事故や事件に巻き込まれたり災害のため身内の方が行方不明となった御家族を、長きに渡って取材してきた経験があるため、感じた部分があるのです」 その「個人的にコミット」した話へと進む前にもう一つ、笠井との特別な関わりについて触れておく。それは、エンドクレジットに「企画」として名が刻まれている(2022年6月11日に72歳で逝去された)映画製作、配給会社スターサンズの代表、親交のあった河村光庸プロデューサーとのエピソードだ。 「2019年の秋に、河村さんに呼ばれて、2人だけでホテルの喫茶店で話したんです。すでに内閣調査室や新聞報道のダークサイドな面を描いた藤井道人監督の『新聞記者』が大変高い評価を受けていたのですが、『今度はテレビをやりたいんだよ、笠井さん。告発をして壊したいんだ。原作本をぜひ書いてくれないか』と依頼されました。ちょうどフリーになったばかりだから自由にぶちまけられるでしょう、と。うれしかったけれど、でも引き続きテレビの世界で生きていく身でしたし、河村さんみたいな風雲児ではないので『無理です』と正直に答えました。すると『ならば告発でなくてもいいです。笠井さんの体験談を書くのはどうか。映画の参考図書にしたいから』と言われ、また心が動いたんですね(笑)。仕事の何割かは映画でしたし、自分がフリーになったことの突破口になるかもしれない。危険な賭けではあったんですけどお引き受けし、出版社の編集者を紹介してもらったんですよ。ところがそのタイミングで僕のがん、悪性リンパ腫が見つかり入院。本は白紙に。それが2019年の暮れでした」 笠井は今回、『ミッシング』のエンドクレジットで河村プロデューサーの名前を見つけた瞬間、「あの時に仰っていたのは、これだったのか!」と思ったのだそう。だがすぐに別の感慨も沸いたのだった。 「批判的な視点は随所にあっても、“テレビを壊そう”とはしていない作品だったんです。そこがこの映画の優れているところ。我々報道に携わる人間が、テレビ局や報道現場を舞台にした映画やドラマを観た時に、往々にして目に付くのは『それは違うよ』と違和感を覚える表現がわりとあること。ところが『ミッシング』には、そんな描写がほとんどなかったんです。むしろ本質的に本作には、報道マンに対するエールを感じました。『もっともっとしっかりしろ』という」 そう、『ミッシング』は娘を探す家族の物語であるのと同時に、その失踪事件を取り扱う、中村倫也が演じた静岡のテレビ局に勤務する記者にして報道ディレクター、砂田裕樹の物語でもあるのだ。 「地方局の場合、ディレクターと記者を兼任することが多いのですが、砂田が抱えている問題がリアルで心揺さぶられ、吉田監督は事前に相当、リサーチをして臨まれたのだなと感心しました。御本人に伺ったら事実、かなり取材をされたそうで、だから報道マンの苦悩や葛藤が、慎重かつ大胆に描かれているんですよね。この脚本を河村さんに提示した時は初め、砂田の存在はあまり大きくなかったので、『報道マンの話をもっと広げてほしい。テレビ界を壊したいんだ』と河村さんに言われたそう。でも取材を通し、コトは単純ではないと知った吉田監督は、地方のテレビ局の“いま”を切り取りたいと河村さんと話し合って、結果的に壊すような方向性ではなくなったんです。思い返せば河村さんと組んで、3年前に公開された『空白』でも吉田監督はマスコミを出しているんですよ。登場するのはやや旧式でステレオタイプな、無神経なロケ撮影をし、センセーショナルに話題を取り上げるテレビクルーの姿でした。『空白』は物語を盛り上げるため、マスコミを過激に描いたと監督から聞きました。同じ監督がこんなにも違う質感でマスコミを捉えたことに注目してほしいです」 ■「砂田は人として善良。でも報道マンとして正しいかはわからない」 『ミッシング』の砂田は、世の中の関心が薄らいでいき、そして他局が報道から退いていっても取材を唯一続け、娘が見つかることを願って沙織里に寄り添おうとする。しかし一方で、局の論理とシステムに直面してゆく。大いにもがく砂田を、笠井はどう見たのか。 「実際の現場の記者やディレクターは、『視聴率を稼ぎたい』とか『おもしろけりゃいい』なんてことだけを行動原理にはしていません。というか基本、取材対象に感情移入していくものなんですね。それを組織の仕組みの中で、デスクやプロデューサーが『報道するうえでもう少しフラットに戻して』とサジェスチョンし、そのバランス感覚によって番組は成り立つ。ただし、一部の上司が視聴率のことを考えて指示をだすことも。組織の様々なパワーバランスが歪に働くことがあり、報道マンでありサラリーマンでもある砂田の難しい立場を、この作品はリアルに掴まえています。砂田は善良な報道マンなんですけど、ちょっといい人すぎるんですよね。インタビュー中、取り乱して泣く沙織里を見て、『一旦休憩しましょうか』とカメラを止めるのですが、“ああ~、砂田は心が弱いなあ”と思ってしまいました。自分も、被害者や遺族に心を寄せて取材にあたる報道マンを目指してきましたが、あの場面、私ならば葛藤しつつもカメラは止めません。ここに世間の方々と、テレビ、マスコミに携わる人間との乖離が生まれる。つまり、涙のあとの表情、キツい状況から絞りだされた言葉にはきっと、当人が表出したかった“本心が宿る”はずなんです。無論、相手に強いストレスを与えてしまう方法ではある。だから砂田が沙織里のことを慮るのは人として正しいんですが、報道マンとしてはどうなのか…。これは皆さんにはなかなか受け入れてもらえない気がしますし、その隔たりが埋められない限り、私たちは“マスゴミ”と呼ばれるのだろうなと覚悟しています」 本気でこう語る笠井は身体の隅々に、“報道に携わる者の宿命”を刻みつけている。砂田というキャラクターも宿命を背負い、局面ごとに苦しい選択を突きつけられ葛藤する。とりわけ娘の最後の目撃者となった沙織里の弟、圭吾(森優作)に疑いの目が注がれ、上層部の命令でインタビュー映像を撮らねばならなくなるシチュエーション――。 「私も以前、似たような経験をしました。5年以上行方がわからない娘さんを探しているご家族への取材。その時『あの親族が怪しい』との告発を受けました。ぜひとも放送して警察を動かしてほしいと。けれども、放送はできませんでした。事実が確定しなかったので。当然、慎重に行動すべきです。砂田は『疑惑を晴らしてもらう』ためにもカメラを回すのですが、かえって疑惑が深まってしまう。そこで編集で、なんとかニュートラルに見えるよう留意する。『こういう流れで車を写したら、彼が犯人だと思わせてしまうよ』と、映像の”編集“が視聴者を誘導してしまうことを懸念するシーンが出てきますよね。吉田監督、的確で細かい!さすがですよ。報道機関をよくリサーチしています。が、そうやって考慮しても、いざ放送したらやはり話題が先行し、上層部は“疑惑の人物”としてターゲットを絞ってゆく。そればかりか特集番組内の映像の、砂田の思いも寄らぬポイントで沙織里にまで過失の声が上がってしまう。いまはネットの書き込みが暴走し、被害者家族にも直接的に言葉の刃が振り下ろされる時代です。吉田監督の冷徹な目が作り上げたシークエンスでした」 失踪事件だけでなく、1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東日本大震災と2度、リポーターとして担当番組のスタッフと現地入りし、長期間の報道、取材を敢行した笠井は、行方不明者の安否を案じる人々と幾度も対面した。 「我々がよく言われたのは、『被災者によくマイクが向けられますね』と。そうですよね。被害が甚大な状況下。皆さん、無念にもどなたかを亡くされたり離れ離れを余儀なくされている。声をかけるのは不謹慎かもしれない。でもね、その中になにかを訴えたい方もいらっしゃるはずで、『いま、このことをわかってほしい』という喫緊の声を広く届けるには、ツラいけれども不特定多数の方々にマイクを向ける必要があったんです。理想ですが心ある視聴者に大切な情報を伝え、さらには有益なフィードバックをしてもらうんだと。中村倫也さんの好演が光る、砂田もそんな気概だったでしょう。ただ、本作をご覧になられて、『マスコミも苦労してるんだな』との感想に達するかといえば、恐らくほとんどの観客は『だからマスコミはダメなんだよ』という結論になる可能性が大。要するに、吉田監督は取材をした報道マンにも感情移入しすぎておらず、一歩引いたところで報道の実相を見つめており、これもまた本作の優れている点です。個人的に思うんですが被害者と報道する側、この2本の柱をここまでバランスよく描いてみせた作品って、指折り数えてもそんなにないんじゃないかなあ」 ■「映画の登場人物それぞれが、なんらかの板挟みになっているのが非常にリアル」 気づかれた方もいるかもしれないが、笠井の口からは“報道マン”はあっても“ジャーナリスト”という言葉は一度も出てきていない。 「たまに私でもジャーナリストの肩書きを頂くことがあるんです。震災に関して、体験本(『【増補版】僕はしゃべるために被災地(ここ)へ来た』新潮社刊)を書いたり、特集番組に専門家として招かれていたりするからでしょうか。でもテレビマン、あるいは新聞記者もそうなんだけど、容易に自分のことを『ジャーナリスト』とは名乗れないんですよ。それはやはり、組織の人間として働いてきた時間が長いからです。根っからフリーランスで活動している人が、胸を張ってジャーナリストと名乗れる気がします。本作の砂田や、一見横柄な上司のデスクだって組織内ではどうしても苦渋の選択を迫られ、ある種のバランスを取らないといけなくなる。もっと言えば映画の登場人物それぞれが、なんらかの板挟みになっているのが非常にリアル! とにかく、吉田監督はテレビマンを“マスゴミ”風に露悪的に描くことなく、そのうえで『信念を貫き通せ』とエールを送っているんですよね。自ら、あの剛腕の河村プロデューサーの進言と渡り合い、やりたいことを全うしたんですから。一本筋が通っています」 純粋に映画ファンとして笠井は、「老婆心ながら、世の中の方々に吉田恵輔という優れた監督の存在をもっと知ってほしい」と願う。 「私はね、是枝裕和監督と吉田監督は映画的に同じような高みを目指していて、でもアプローチは真逆、表と裏の関係だな、と思っているんです。是枝監督はもともと、ドキュメンタリストで子どもたちには基本、台本を見せずに現場で口立てで即興的に演出するし、大人の役者にカメラを向けても生々しいドキュメンタリータッチが秀でている。一方、吉田監督は即興ではなく、フィクションであることを徹底させ、役者さんをコントロールしながらもその都度、感情の“一回性のドキュメント”を成立させてゆく。で、やり方は違っていても、出来上がってくるものは事実のトレースではなく、両者は“真実”を炙り出そうとしているところが似ているんですね。本当に二人は対照的で、是枝監督は物静かで思慮深く話され、実際に大学の教授もやられている。吉田監督は普段と同じくインタビューの席や舞台挨拶でも明るいキャラクターで、すぐにおちゃらけるんですよ(笑)。日本は、是枝さんや濱口(竜介)さんのように世界で賞を獲ると一流監督といった風潮があるけれど、まだ無冠ですが吉田監督もそこに並んでいて、この『ミッシング』を撮ったことで今後ますます飛躍される思います」 取材・文/轟夕起夫 ※吉田恵輔監督の「吉」は「つちよし」が正式表記