男気は高倉健のよう 故郷・珠洲に尽くした大工は実家の下敷きに…妻は失った実感持てず
半年前のあの日。珠洲市を震度6強の揺れが襲い、呑田さんは、新年のあいさつに訪れていた友人とともに実家の下敷きになった。
「珠洲市三崎町粟津で死者2名」。元日夜、大阪の自宅でテレビのニュースを見た順子さんは夫の携帯電話にかけた。だが、つながらない。「近所やけど、うちではない」。そう信じていたが2日後、現地に住む親族から、亡くなったと電話で知らされた。ゆくゆくは珠洲市で一緒に暮らすはずだったが、かなわぬ夢となった。
■葬儀後に届いた年賀状
呑田さんとの最後のやり取りについて、順子さんの記憶は「真っ白」。今でも「ふと電話してくるのでは」との思いが消えない。「テレビを通して死を伝えてくれたのかな」
1月中旬に葬儀を終えたころ、知人や親族のもとに呑田さんが生前送った年賀状が届いた。《弟を頼むわな》《今、ボランティアを頑張っている》。一枚一枚に手書きされたメッセージが、遺言のように感じられた。
「お金をたくさんもうけることはなかったけど、めっちゃ働いた。それが生きざま。いい人生やったんちゃうかな」。順子さんは涙をぬぐい、ほほ笑んだ。
発災から半年がたってもなお、珠洲市をはじめ被災地には、数多くの倒壊家屋が手付かずのまま残る。もし呑田さんが健在だったら、こう言って復旧に奔走しているに違いない。
「やったるわいや」(木津悠介)