男気は高倉健のよう 故郷・珠洲に尽くした大工は実家の下敷きに…妻は失った実感持てず
大工として、故郷のために尽くした人だった。能登半島地震で石川県珠洲(すず)市出身の夫、呑田喜三代(のみだきそよ)さん=当時(75)=を亡くした順子さん(77)は、その男気を「高倉健のよう」と誇らしげに語る。呑田さんは約50年、大阪で建築業に携わり、令和4年に帰郷。持ち前の技術で知人宅の復旧などを手伝っていたさなかに犠牲となった。地震から7月1日で半年。順子さんに、最愛の人を失った実感は、今もない。 【写真】倒壊した呑田喜三代さんの実家=令和6年6月25日 ■損得抜きで請け負い 「家では照れもあってコミュニケーションが下手なところもあった。でも、外では男気があふれていた」。順子さんは涙ながらに振り返った。 珠洲市三崎町粟津(あわづ)で生まれ育った呑田さんは県内の高校を卒業後、大阪府内で働きながら夜間大学で建築を学び、建設会社に就職した。奈良県桜井市出身で同じ会社に勤めていた順子さんと出会い、結婚。男ばかり3人の子宝に恵まれた。 独立した後も仕事ぶりは「丁寧で誠実」と評判だった。数十年前に施工した家屋でも、安価で修繕を請け負う「損得勘定抜きの仕事人間」(順子さん)。大阪で確固とした信頼を築いた。 一方で、3人きょうだいの長男に生まれた呑田さんは、故郷を忘れなかった。喜三代の名は「喜びが三代続くほどの家の繁栄」を願って付けられた。「いつかは実家に戻る」。昔からそう決めていたという。 令和4年5月、珠洲市に戻り、両親が他界して空き家となっていた実家で暮らすことに。順子さんは大阪から時折、珠洲市に足を運んだ。 ■「うちではない」と信じ 珠洲市では直後の4年6月に最大震度6弱、5年5月には同6強の地震を観測し、多くの家屋が被害を受けた。 呑田さんはそうした被災家屋の修理を無償で手掛けた。それだけでなく、地元で「幻の古陶」と伝わる珠洲焼の窯や、煙突、風呂の修理など住民の困りごとを聞くと「やったるわいや」と快く応じていたという。 故郷で昔からの友人と語らい、笑い合い、大工仕事で汗を流す。珠洲市に住むいとこの大畠貞雄さん(60)は、帰郷後に精悍(せいかん)さを取り戻していった呑田さんの姿が目に焼き付いている。「大胆で細やか。間違ったことは大嫌いな職人かたぎ、親方肌の人だった」