「覚えているのは寿司屋に行ったときに…」内田篤人が語る“長谷部誠の正体”「長谷部さん、ちょっと面白くなってる。成長したなと(笑)」
辛いときこそ「長谷部ならどうするか」と考えた
長谷部との出会いは2007年12月、岡田武史監督率いる日本代表の候補合宿だった。互いに静岡県生まれで、Jクラブの下部組織ではなく、高校の部活でサッカーをやっていた。ただ、4学年離れている2人は年代別代表、地域の選抜チームでも一緒にプレーすることはなかった。 「静岡にいたから長谷部誠っていう名前は知っていた。覚えているのは、合宿中に長谷部さんがウォーミングアップしていて、プーマのスパイクを履いているなぁって。最初の印象はそれくらいだった」 その後、日本代表では'10年南アフリカワールドカップをともに戦った。大会直前に控え組に転落した内田に対し、ゲームキャプテンを任された長谷部。まだ2人の間に距離があったのは、立場と年齢差が影響したのかもしれない。 関係に変化が生じたのは、内田がドイツのシャルケに移籍した'10年。長谷部がヴォルフスブルクで指導を受けたフェリックス・マガト監督が、内田の新天地の指揮官を務めていた。軽い気持ちで、内田は長谷部に電話で相談した。すると、こう言われた。 「マガトは真面目にやったら絶対試合に使ってくれる。真面目にやれ」 初めての海外移籍。通訳もつけずに飛び込んだチームで実行した。「軍隊式」と例えられたマガト監督の練習は厳しい。急に「朝食をみんなで摂る」と朝早く集合がかかることもあった。試合に出られない時期、ミスした時こそ、長谷部の言葉を信じた。 20代前半だった内田は当時の取材でこう明かしている。 「長谷部さんはいつでも自分に厳しく、ブレない強さを持っている。試合に出られない時、ミスした時、きつい状況になった時に長谷部さんならどうするのだろうと考えるようになった」
ドイツで初ゴールに長谷部から「おめでとう!」
ドイツで初ゴールを決めた時には、真っ先に長谷部から「おめでとう!」と連絡を受けた。いつしかゲルゼンキルヘンの自宅玄関には、長谷部と交換したヴォルフスブルクの緑色のユニフォームを飾るようになった。出かける前に「それを見たら気が引き締まる」とも話していた。 「アドバイスをもらったこともあって、真面目にやるって決めた。ピッチだけではなく、ピッチから出ても。そう言ってくれた長谷部さんの顔もあるし、ちゃんとしなきゃって。長谷部さんの後にドイツに来た日本人のイメージみたいなものを崩さないようにと心がけていた」 日本代表では'14年ブラジルワールドカップに向け、アルベルト・ザッケローニが監督の座に就いた。主将に任命された長谷部と、右サイドバックのレギュラーを任された内田。そこに川島、吉田を加えた4人で宿舎周辺で体を動かす「散歩隊」を結成。のちにプライベートでも家族を交えて年1回食事をするなど、仲は深まっていくことになる。
(「NumberPREMIER Ex」内田知宏(スポーツ報知) = 文)
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