モータースポーツ界の革命児、野田樹潤の才能を伸ばした子育てとは? 「教えたわけではなく“経験”させた」
最高時速300kmの世界で700kg近いマシンを操り、トップドライバーたちの中で紅一点熾烈な戦いを繰り広げる――。F1に次ぐ国内トップカテゴリーのスーパーフォーミュラに、史上最年少、初の日本人女性レーサーが誕生した。野田樹潤は元F1ドライバーの野田英樹の娘で、父が主催するNODAレーシング・アカデミーで育った。3歳でカートと出会い、プロを目指したのは5歳の時。9歳の時に史上最年少でF4のドライバーになり、10歳時には現役レーサーと遜色ない好タイムを記録した。「プロボクサー並み」といわれる目の情報処理能力や、3G、4Gの力がかかっても落ち着いて状況判断できる力、大舞台でも動じないメンタルの強さ。その稀有な才能は、どのように磨かれてきたのだろうか。幼少期から彼女の成長をサポートしてきた父・英樹さんに話を聞いた。 (インタビュー・構成=松原渓[REAL SPORTS編集部]、写真提供=juju10.com)
さまざまなことに挑戦した幼少期。5歳の時に「プロを目指す」と宣言
――樹潤さんは小さい頃に、ダンス、サッカー、体操、水泳など、他のスポーツをやっていたこともあるそうですね。3歳でキッズカートでデビューしたそうですが、小さい頃からレーサーになる特別な資質を示していたのでしょうか? 野田:レーサーにさせたかったわけではないんですよ。子どもですから、いろいろな可能性があると思うので、いろいろな経験をすればいいと思って、いろいろなことをやらせました。一般的に言うような塾に通って勉強をしたり、いろいろなスポーツをさせて、その中で本人がやりたいことを見つけられればいいなと思っていたんです。その中で、本人的にはレースが楽しくて一番好きだったようで、それはたまたまだったんだと思うんですけどね。 ――当時、英樹さんがF1レーサーとして活躍されていた姿を見て、憧れた部分もあるのでしょうか。 野田:それはあると思います。いつも私のレースについてきて、爆音を聞いたり、私が運転する速いマシンの助手席に座って、サーキットを体感したりしていたので、彼女にとっては普段の生活の一部だったと思います。そうやって小さいながらに、他の子よりもレースに関していろいろな経験をする機会があったと思うので、やれる気になっちゃったんだと思います(笑)。 ――3歳の時にカートをプレゼントしたそうですが、初めて乗った時の反応はどうでしたか? 野田:普通は3歳の子どもが、そんなエンジンの爆音を目の前に突きつけられると、その音のすごさとか、振動にびっくりして泣いちゃう子が多いんじゃないかと思うんです。でも、本人は逆にそれを喜んでいました。「お父さんの真似をして速く走りたい」という感じで、アクセルを全開に踏みこんでいましたから。まだ怖さとか、ぶつかった時の痛さも知らない時でしたから、それが才能に関係しているのかはわからなかったのですが、「ちょっと違うな」と思い始めたのは、5歳ぐらいの時でしたね。 ――4歳ですでにレースデビューをしていたそうですが、どのような面で他の子どもたちとの違いや可能性を感じたのですか? 野田:すごく負けず嫌いでした。それと、自分が決めたことをやり遂げる、妥協せずに努力するところも周りとは違っていました。たとえば、練習に行って自分より速いタイムを出す子がいたら、そのタイムを抜くまで練習をやめなかったし、そのタイムに追いつかない時はもう泣きわめいていましたから(苦笑)。その頃のレースは、「出るものは全部勝つ」ぐらいの感じでやっていましたが、負けるときもありました。その時の悔しがり方は、手がつけられないぐらいでしたね。 ――その気持ちの強さも、さまざまな最年少記録を更新していく成長スピードにつながったのですね。当時、樹潤さんを本格的にサポートしていこうと考えた転機はあったのでしょうか。 野田:5歳のときに「プロを目指す」と言ったので、それからは私にとっても、ただ見守る楽しみだけではなくなりました。本人にとってはもちろん「楽しむ」ことが大前提だと思うのですが、その中にはスパイスも必要で、楽しいだけではやっていけない。「プロになることは簡単なことではなく、乗り越えていかなきゃいけないものがある」ということも理解させるために、厳しくする一面もありました。