ボスニア初の五輪メダルなるか 紛争後生まれの希望の星、女子水泳代表ラナ・プダル
切手になったボスニアの新星
様々な火種が燻る中、7月開幕したパリ・オリピックで、ボスニア・ヘルツェゴビナに待望のメダルをもたらすと期待されているのが、同国の水泳女子代表ラナ・プダルだ。2023年9月には100mと200mバタフライでジュニア2冠に輝き、今年2月の世界水泳では200mバタフライで銅メダルを獲得。オリンピックに向け、一躍、同国の希望の星となった。 7月には早速、プダルを描いた郵便切手が発行され、同国の顔となっている。 プダルが生まれたのは内戦が終焉してから10年以上が経過した後の2006年。まさに、血肉を争った内戦を知らない世代でもある。7月中旬、18歳のボスニア代表はインスタグラムにこう綴った。 「パリ・オリンピックは夢と努力と献身の集大成です。世界最大の舞台で国の代表となれることを誇りに思います」 プダルは、ボシュニャク系を中心とするボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の中心都市モスタルで生まれ育った。ネレトヴァ川にかかるオスマン帝国時代に建造された(現在の橋は内戦後に再建)石造りの橋を代表とする観光名所でもあるが、内戦では激しい戦闘の舞台となった。 町を南北に走る目抜き通りを境に、東側にはボシュニャク系、西側にはクロアチア系が居住し、内戦では、目抜き通りを「分離線」として連日戦闘が行われた。当時を知るクロアチア系の住民は、「午後3時くらいまでは街中を歩けたが、午後4時くらいにサイレンがなり、そこから戦闘が始まった。今でもその音を覚えている」と話す。 現地では今も住宅の壁などに生々しい弾痕が残り、ボシュニャク系が暮らす住宅街にある墓地に行けば、1990年代に亡くなった若者たちの墓碑が並ぶ。
付きまとう政治的雑音
かつての激戦地モスタルに生まれたプダルだが、同地にはオリンピックサイズのプールがない。そのため、プダルは列車に乗り、何時間もかけてサラエボやバニャルカへ通い練習を続けた。 さらに、成長を続ける若きスイマーには、紛争の背景ともなった民族主義的な政治的雑音も付きまとう。 プダルは、セルビア系の父親と、クロアチア系の母親を持つため、セルビアの右派系タブロイド紙は、「新たな欧州チャンピオンは、セルビアではなく、ボスニアを選んだ」と酷評した。最近では父親が、プダルがセルビア代表になるようオファーを受けたことがあると明らかにしたことで論争にもなったが、プダルは「私がどの国を代表するかは、これまでに一度も問題になったことはなく、常に私の一存で決めるものであり、他の誰のものでもない」と声明を出す事態ともなった。 プダルにはまた、クロアチア代表としてオリンピックに出場するという選択肢もあった。同じく旧ユーゴスラビアの構成国で、ボスニアの北西に位置するクロアチアはEU(欧州連合)加盟国であり、2023年から通貨としてユーロも導入し、EUへの統合が進む。ボスニアに暮らすクロアチア系の住民の中には、EU加盟国で、欧州での渡航や滞在で断然有利なクロアチアのパスポートを取得する住民も少なくない。中には、ボスニアのパスポートを持たず、クロアチアのパスポートのみ持つという住民すらいる。 しかし、プダルは自分が生まれた国家であるボスニア・ヘルツェゴビナの代表として出場する道を選んだ。去年12月、現地メディアの取材に対し、プダルはその思いを語った。 「私の国の人たちは、私を愛してくれていますし、近隣の人たちも私のことを尊重してくれていると思います。 私がボスニア・ヘルツェゴビナのために泳ぎたいと思ったのは、ボスニア・ヘルツェゴビナが私の国だからです。 私はそこで生まれ、そこで育ち、故郷と国のために素晴らしいことをしたいのです」
民族の架け橋となれるか
ボスニア・ヘルツェゴビナでは、今も民族間の軋轢が存在する。学校教育では主に、ボシュニャク系の子供はボシュニャク系の学校へ、クロアチア系の子供はクロアチア系の学校へ、と分かれているのが現状だ。 モスタルでは、オーストリア・ハンガリー帝国時代に由来する2つのギムナジウム(高校に相当)があり、クロアチア系とボスニャク系が学びを共にする場所となっているという。プダルはギムナジウムの出身だ。 紛争を知らないボスニアの若い世代が、紛争の影に揺れる同国に何をもたらすのか。「平和の祭典」オリンピックには、競技力だけでは測れない、様々なドラマが隠されている。
ジャーナリスト 曽我太一