「バカヤロー」で大スターになった美貌の青年・美輪明宏…マスコミのバッシング、理解を得られなかった「シスターボーイ」が音楽界に叩きつけた挑戦
マスコミからバッシング、まったく理解をえられなかった低迷期
ところがスターになったものの、ブームは1年ほどで沈静化してしまう。同性愛者であることを隠さなかったためにバッシングに遭い、その後はマスコミから締め出された状態になった。 『メケ・メケ』で成功する前からの知り合いだった中村八大は、丸山明宏が美貌を看板にして売り出したことに不安を感じたという。 「彼の服装や独特の言行から人々に与えた印象や、彼が意識してとった商品的ポーズは、彼が本来持っている強い音楽への愛情、又心から歌を表現出来るえらばれた歌手だと言う事を、スポイルしてしまったと思うのです。率直に云って私は、もう彼の歌はだめになる……と思いました」 しかし、もう少しで忘れ去られるところだった丸山は、長い低迷期間中に自分の心の底にある音楽を見つめ直していた。そして逆境の中で、「本当の歌を探すため」に自分でテーマを見つけて、作詞作曲するという道を選んでいた。 今でも主要なレパートリーとなっている『うす紫』『金色の星』『ヨイトマケの唄』『ふるさとの空の下』などの作品を、コツコツと書き上げていたのだ。こうした活動は当時の聴衆からも芸能界からもまったく理解を得られなかった。 6年の雌伏期間を経た丸山明宏が、数十曲もの作品を携えて中村八大のもとを訪ねたのは、1963年4月のことだ。
日本の音楽史上で「最初のシンガー・ソングライター」が誕生
その頃の中村八大は第1回レコード大賞を獲得した『黒い花びら』(歌/水原弘)や『上を向いて歩こう』(歌/坂本九)などの作品をヒットさせて、作曲家・プロデューサーとして日本の音楽シーンに新風を吹き込んでいた。 中村八大の助力を得た丸山明宏が、総勢80名のオーケストラをバックに21曲を歌ったリサイタルは、1963年11月8日に東京大手町のサンケイ・ホールで開催された。 全作品を自らが書いた楽曲によるコンサートは、これが日本で最初のことだった。日本の音楽史の上で「最初のシンガー・ソングライター」が、その時に誕生したのだ。 作家の三島由紀夫は終演後、舞台裏でこう言ったという。 「君、大成功だよ。君の歌には土の匂いがあった」 歌唱に対する評価が厳しいことで有名だった中村八大が「天才歌手」と呼んだのは、丸山明宏ただ一人だけだった。 こうして長く失意の中にあった青年による、音楽界に叩きつけた挑戦は成功した。 マスコミに同性愛者であることを公言することが、今よりも信じられないほどの非難を浴びた60年前の日本。世間からはキワモノと見られていた丸山明宏は、このリサイタルを機にシンガー・ソングライターとしての地位を確立した。 さらには俳優、タレント、演出家としても、独自の美意識で確固たる世界観を築き上げた美輪明宏は、様々な人との出会いから生まれた歌や芝居のエッセンスを自らの手で大切に育てながら、次の時代へ遺すことに、今も情熱を注いでいる。 文/佐藤剛 編集/TAP the POP サムネイル画像/左:2013年12月25日発売DVD『美輪明宏ドキュメンタリー~黒蜥蜴を探して~』、右:2021年11月17日発売『ヨイトマケの唄』(ともにKING RECORDSより) 参考・引用文献/美輪明宏『紫の履歴書』
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