〈焼き討ち、刀傷沙汰の数々〉すさまじい電気の事件史から問う 電気はいったい誰のものか
声を上げること「創造的に戦う」ことも必要
──現代を生きるわれわれが、電気を自分事として捉えるには何が必要でしょうか。 田中 今、心配なのは、政府の方針や政策が、国民的議論もなく進んでいることです。福島第一原発事故後は、原発推進派と再エネ推進派の間でさまざまな議論がありましたが、今はどうでしょうか。 国は原発再稼働を掲げていますが、高レベル放射性廃棄物の問題はどうするつもりなのでしょうか。再エネもメガソーラーばかり目立ちます。しかし、太陽光パネルもやがて〝大量のごみ〟になることが明らかです。こうした課題に対して、国が本気になって「なんとかしよう」と模索している雰囲気が感じ取れないことも気になります。 もちろん、私も既存の大電力体制の中で電気のある生活を享受している一人です。すぐに国の政策を変えることが容易でないことは理解しています。ただし、「これしか(道が)ない」ということが本当に正しいのでしょうか。それに対して、国民はもっと声を上げてもいいのではないでしょうか。暴力は決して正当化されるものではありませんが、「おかしい」と感じることに対して、声を上げ、行動に移すことも大切です。 ただし、赤穂騒擾事件や電灯争議の時もそうでしたが、自分の頑張りや考え方が「正義」になり、その価値観を共有しない身内の者への攻撃や排除となってはなりません。今求められているのは、破壊的な戦いではなく、「創造的に戦う」ことです。 また、既存の電力会社の現場で大変な苦労をしながら、われわれの生活を支えてくれている方々への感謝の気持ちは忘れてはなりません。政策を決定する上層部の方針、振る舞いが本当に正しいのかどうかというものさしで見るべきでしょう。上層部は、国民や下の人たちから常にそう見られることを自覚すべきです。 ──あらゆる面で国民が「当事者意識」を取り戻すことが大事ですね。 田中 かつての村落には、村人の誰もが薪炭や用材、肥料にする落葉などを採りに入れる共有の「入会林野」というものがあり、囲炉裏にくべる燃料などは、そこで集めていました。まさに「自然の恵み」を受けられる公共の場所でした。これは維持管理のための排他性も持っており、赤穂村の村民は、長野電灯会社という外資が入ることを嫌がっていたといえるでしょう。ただ、この入会地のあり方が当事者意識のある公共の感覚につながるものだったと思います。 かつての人々が起こした事件は現代人には共感できないものかもしれません。ただ、それは、われわれが自然観に基づいていた「公共性」の概念を失い、電気が自分たちのものであるという観念も薄くなっているからだといえます。このままでよいのか、まずは、自問自答することから始めるべきでしょう。
大城慶吾