現代日本の新たな「アソシエーション」、それは「クイズ文化」かもしれない
宇野重規・畑中章宏・若林恵の3氏による『『忘れられた日本人』をひらく』発売記念トーク(2月20日、ジュンク堂書店池袋本店)。日本における公共空間から、宮本民俗学の活かしかた、そして「アソシエ―ション」の新しい形について考える。 【写真】女性の「エロ話」は何を意味しているか? 日本人が知らない真実
「公共性」が生まれる場
若林 何かしらの問題を解決していこうとしていくには、宇野さんが先に言った「テクニック」が必要で、そうしたテクニックは伝統社会の中では継承されていたような気がするんです。ところが僕らは、「自分の意見を言え」というぐらいの技術しか持っていないんじゃなかいと。 畑中 会社の会議以外に、集まって議論するのなんて面倒くさいとみんな思っているんでしょう。だから、「複数の世間」のようなものを、現代の日本人は持ちたくないのかもしれないですね。 若林 それは、人とやり取りするための技術がやせ細っちゃっているからなのかな。 宇野 ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスは、後年、難しいことばかり言うようになったので苦手になったんですけど、最初の『公共性の構造転換』は今でもいちばん好きなんです。 この本でハーバーマスは何を言っているかというと、もともとは宮廷の中にしかなかったある種の「公共空間」が、そこからスピンアウトして、貴族の夫人のマダムのサロンだとか、新しくできたカフェに人が集まっておしゃべりしたりして、文芸的公共性を持つようになっていった。要するに、「あの小説おもしろいよね」「あの曲いいわよね」とか言って、それが過熱化してくると政治的な公共性に転じて、フランス革命まで行ったというんです。どうも話がよくできすぎてるけど、発想としてはよくわかる。「さあ、政治的、社会的な目的のためにみんなで集まって議論しましょう」といきなり言ってもやりはしないということです。 初めは小説や詩のような文芸が楽しかったわけでしょう。みんなでお互いに批評し合ったり、人を説得するテクニックを楽しむんです。全員が全く違うことを言ったとき、場を収める能力を養って、そこから政治的公共性になっていくというのは正しいような気がします。今ではそれこそ現代的なファンダムがあるわけですから、そこからもうちょっと新しいコミュニケーションのスタイル、議論のスタイルが生まれてきて、それがやがて政治的になる可能性もないわけではない。 若林 僕自身は参加したことがないんですけど、日本の「句会」は、ある種の民主的な空間でもあるわけじゃないですか。みんなが俳句を作って、それに「いいね」って言いながら技術を競う。俳句でできるんだから、ローカルの課題に関しても同じようにやれるんじゃないかと。 宇野 今のX(旧・Twitter)を見ていると、そういう技術が崩壊して、百鬼夜行みたいにみんなで罵り合って斬り合っていますよね。だからおちおちものを言えなくなっている。 若林 すぐ論破みたいな話になってしまう。そうした論破じゃないコミュニケーションの技術が本来的にはあったはずなんですけどね。 宇野 最近は短歌がブームで、みんなスマホで短歌を作るじゃないですか。そういうなかかでもやっぱり批評は必要なんです。つまり、いろんなものの良し悪しをみんなきちんと議論していく。単に「俺はこれが好きだ」というのではなく、批評機能から新しい公共性が出てくるかもしれませんね。