現代日本の新たな「アソシエーション」、それは「クイズ文化」かもしれない
宮本民俗学の現在性
若林 ところで、宮本常一のおもしろい読み方が、なぜ民俗学以外から出てくるんでしょう。 畑中 たまたまかもしれないですが、宮本の著作を人文系の人気のある学者の方が、うまく引用、援用しているからかもしれません。 たとえば、文化人類学者の松村圭一郎さんは『くらしのアナキズム』(ミシマ社)で、寄り合い民主主義、熟議の民主主義の、一見非効率に見えるけど、納得いくまでみんなで話し合うことを評価しています。ほかにも、社会学者の岸政彦さんがふつうの人々の生活史、ライフヒストリーをふつう人々が聞き書きした、『東京の生活史』『大阪の生活史』(筑摩書房)を送り出しています。そうした岸さんが唱える質的社会学の解説書に、ライフヒストリーの聞き書きの先駆例として宮本の「土佐源氏」が紹介されていました ただし、宮本のフィールドワークのメソッドや理論というのは、宮本自体が体系化してないというところがあります。ですから、柳田、折口以降に確立化されていったアカデミズムの調査手法と比べたとき、宮本常一の個人の個性に依存しているように見える。そういうこともあって、アカデミズムでは扱いにくいし、論じにくいのかもしれない。一方で、僕みたいな在野の人間のほうが宮本常一のフィールドワークに共感するし、そこからもっと拾い起こせることがないかと何度も読みなおすことになっているんでしょうね。 若林 なるほど。 畑中 民俗学の中で宮本常一が論じられてないわけではない。立教大学の門田岳久さんが『"抵抗"の民俗学―地方からの叛逆』(慶應大学出版局)という本を出されていて、宮本常一の、佐渡であったり山古志であったりにおけるまちおこしの実践が、実際の民俗学的調査研究と、実践という間に齟齬があるんじゃないかといったことを深く追求されています。
新たなアソシエーションとしての「クイズ文化」
若林 トクヴィル的なアソシエーションに話をもどすと、「アソシエーションを作りましょう」と言っただけでは、人は集まりませんから、そこには求心力が必要で、アイドルを媒介にすると実際に人が集まる。そこで、会場からの質問で、「現在の人々の動きの中で、アソシエーションになりそうなものがあれば教えてください」というのが来ています。 畑中 それにはやっぱり新しい「講」を作らないと(笑) 若林 まず自分から答えますけど、さっき句会の話があったように、日本の文化のありようは、実は民主化していく方向性を持っているんじゃないかと思えるんです。 たとえば音楽でも、天才的な作詞家・作曲家の作品を味わうだけじゃなくて、自分たちでカラオケで歌っちゃうわけですよね。それって音楽というものを真剣に考えると冒涜なんだけど、日本人はそういう方向性を持っている。ですから、西洋の感覚だと松尾芭蕉を理解するには芭蕉の俳諧を味読することになるんでしょうが、日本だと、「みんな自分で詠んだらいいじゃん」という話になるのは、不思議な文化だと思いませんか(笑)。そうした意味でカラオケは、世界から見ると、メチャクチャラジカルなイノベーションなわけですよ。 それに相当するものが現在の日本の文化に何かないのかと思って、最近気づいたのがクイズです(笑)。日本はクイズがものすごい洗練を極めている。競馬と掛け合わせて『クイズダービー』になるとか、旅と掛け合わせて『ウルトラクイズ』になるとか(笑) 宇野 クイズがいいのは、それが筆記型だからでしょう。筆記型は知識さえ集めればできるわけだから、ある意味で平等なんですよ。立派なこと、かっこいいことを言えと言われたら難しいけど、知識ならみんなが「知ってる」と言える。それが洗練されて、巧みに競争の原理とくっつけるというのは、たしかに日本の文化かもしれませんね。 若林 畑中さんが以前、神社に奉納されている「算額」の話をしてましたよね。 畑中 「和算」は日本独自の数学で、和算の難問を解決したら、神仏に感謝してその解法を描いて奉納した絵馬ですね。東京だと渋谷の金王八幡宮にありますし、秩父や福島にはいくつも残っています。 若林 あれってクイズ文化じゃないですか。和算が熱狂的になっていって、それが全国的に数学のリテラシーを底上げした気がするんです。その観点から言えば、算額文化は日本近世の民俗社会のアソシエーションですし、クイズ文化の先駆けに違いないように思えるんですよね。
宇野 重規/若林 恵(黒鳥社コンテンツディレクター)/畑中 章宏(作家)