五木ひろし「太陽みたいな人だった石原裕次郎さん。Tシャツに短パン、ビーサンが似合う昭和の大スター」
◆〈歌手同士〉という立場で対談 その後、数年経って、僕がラスベガスから帰ってきたころに、雑誌で対談させていただく機会がありました。僕が、そのころちょうど、英語の大切さが身に沁みていて、本当は1年ぐらい休んで留学したいんだけど、それもかなわずにいるという時。裕次郎さんとは、英語の歌を歌うのは大変だね~という苦労話などが出ましたね。裕次郎さん自身は英語は堪能だったんですが、歌となるとまた違うんです。 僕も、英語の上達のために、3年間、アメリカ人の男性をマネージャーにして普段の会話も英語にしたりしましたが(笑)、やはり小さいころから英語になじんでいるというのが必要だなあと感じましたね。 だから、僕の3人の子どもたちには、それぞれ海外留学をさせました。今は、その甲斐もあって僕の夢を子どもたちが叶えてくれた感じですね。外国から日本を見るのはとてもいいこと。今の日本は、海外の影響を受けていろいろな街づくりや企業体系ができている。3人ともグローバルに生きてくれているのは頼もしい限りです。 裕次郎さんとは当初は〈歌手同士〉という立場でお会いして親交を深めましたが、裕次郎さんの映画って、必ず主題歌があって、それが全部ヒットしていたわけですから、すごいですよね。裕次郎さん自身は、俳優より歌のほうが好きだとおっしゃっていたみたいです。 でも、今だから言えますが、歌うときは必ずカンペだったんですよ。「俺は俳優なんだから歌詞なんて覚えないよ」ってね。(笑) それなのに、1965年に全国縦断のリサイタルを敢行してるんですよね。今みたいにプロンプターもない時代だし、いったいどうやって乗り切ったんだろう。(笑)
◆俳優であり歌手でもあった 俳優であり歌手でもあったけれど、どちらも自分から望んでなろうと思ったわけではなく、決して心から楽しんでいたわけではないと、近くで見ていて感じたことがあります。 裕次郎さんは、1958年に『わが青春物語』という自叙伝を出版しています。それによると、20代のときから、なにかというとビール。レコーディングのときも、ヨットでも、けんかをした後もいつもビール。本当にビールを飲むのが好きだったみたいです。 俳優も歌手も、目指してなったわけではないのに、どんどん有名人になっていったんですから、運命ですよね。 もとはと言えば、兄の石原慎太郎さんが小説『太陽の季節』を書いて芥川賞をとったために、これを原作とした映画ができて、弟の裕次郎さんがプロデューサーの水の江瀧子さんにスカウトされ、俳優の道を歩むことになったわけですが、それも含めて運命だったという気がします。 ビールを飲まなくてはやっていられないほど、シャイだったのかもしれません。 海、ヨット、ハワイ…。傍から見ると、満ち足りた生活のように見えますが、どうだったんでしょうね。 石原裕次郎さんとのお付き合いを通して、渡哲也さんとも親しくさせていただきましたが、渡さんも残念ながら他界されてしまいました。 天国でボスの裕次郎さんとまた仲良く語り合いをしているのが目に浮かびます。 (構成=吉田明美)
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