「本当は残りたかった…」元横綱・曙太郎さん逝去…横綱から格闘家になった”ジェントルマン”な素顔
元横綱の曙太郎さんが心不全のために亡くなっていたことが4月11日にわかった。 曙さんは、’17年4月に福岡県内で行われたプロレスの試合後に体調の異変を訴え緊急搬送された。37分間の心停止に見舞われたため重度の記憶障害が残り、長年闘病生活を送っていたが、4月に入り体調が急変していたという。享年54。’05年から参加していた全日本プロレスは、公式サイトで、 【貴重】すごい!部屋の祝勝会でダンサーと踊る陽気な若き頃の曙関…! 《曙さんのファイトや人柄は多くのファンを魅了してきました。曙さんの訃報に接し、全日本プロレス所属選手・スタッフ一同は、謹んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りいたします。》 と、追悼のメッセージを綴っている。曙さんと何度か2人きりで話す機会があったという元相撲協会外部委員で漫画家の、やくみつる氏は、 「若い人にはプロレスラーとしての姿の方が記憶に残っているかもしれませんが、相撲ファンにとっては、外国出身力士として初の横綱となった曙の姿が印象に強く残っています。彼は性格も非常に温厚でジェントルマン。若貴(若乃花と貴乃花)が台頭してからは、図らずも彼らの敵役のような立場になってしまいましたが、本当に強い、心の優しい、もっと評価されるべき横綱だったように思います」 と、高く評価する。曙さんは’88年にハワイ出身の東関親方(元関脇高見山)にスカウトされて来日。同年春場所で若花田(後の横綱・若乃花)、貴花田(後の横綱・貴乃花)兄弟らと同時に初土俵を踏んだ。長い手足を活かした、立ち合いから土俵際まで一気に攻める豪快な突き押しを武器に、わずか4年で大関昇進を果たすと、’93年に第64代横綱に昇進した。 「北勝海(現八角理事長)引退後、空位となった横綱に昇進し、貴乃花が横綱になるまでの11場所も一人で横綱を務めたのです。横綱3場所目からは3連覇を果たし、年間最多勝も獲得しています。名実ともに大横綱の仲間入りを果たしました」(スポーツ紙記者) ’94年11月場所、貴乃花の横綱昇進を決定づけた千秋楽での49秒にもわたる対戦は、「これぞ、名勝負」「角界の第一人者をかけた死闘」などと評された。 「しかし、その年の4月に痛めた左膝のケガが原因で故障がちとなり、休場も増えていきました。同期ながら、遅れてきた貴乃花と若乃花が曙に取って代わるような形で、大相撲の顔となっていったのです」(前出・記者) 通算11度の優勝を果たし、’90年代の大相撲人気を支えたが、’01年初場所で引退。東関部屋の部屋付き親方となって後身の指導にあたっていたが、わずか2年後に日本相撲協会を退職した。同年に『K-1』出場を表明し、その後も『K-1』や総合格闘技などの試合に出場。プロレスラーとしても活躍した。やくみつる氏は、横綱時代の曙について、このように語ってくれた。 「曙の土俵入りは雲龍型でしたが、歴代横綱の中でもかなり完成された美しいものでした。’98年の長野オリンピックの開会式で披露された時は感動しましたね。当時、すでに力はかなり衰えていましたが、全盛期の長い腕を活かした突っ張りからの突き押し相撲は本当に強かった。 若貴の敵役だったということで、過去映像などで貴乃花に負ける相撲ばかりが放送されました。格闘家になられて、正直、あまり見栄えの良くない負け方をしていましたよね。彼の輝かしい相撲人生が、あのような映像で上書きされるたびに寂しい気持ちになりました」 そして、このようなエピソードも……。 「彼が部屋付き親方時代に、何度か一緒に地方のイベントに行ったりして、風呂場で一緒になったことがあったんです。その時に弟子育成の話とかを伺って、親方としてすごく意欲を持っておられた。 年寄株を持っていなかったので、部屋を持つことは叶いませんでしたけど……。格闘家になられたあと、お話しさせていただいた時には、『本当は(相撲協会を)辞めたくなかった……』と仰っていました。本当に惜しい人材を失ったと思います」 長野オリンピックの土俵入り姿は、今でも世界中の人々の記憶に深く刻まれていることだろう。ご冥福をお祈りします。
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