【『内村プロデュース』が19年ぶり復活】内村光良の「静かな革命」 デビュー当時を知る共演者が明かしたコント王の原点
芝居のセンスで勝負
1985年にプロデビューを果たしたウンナンは、センス溢れる斬新なコントで瞬く間に若者のハートをつかんだ。そして、数年後には「西のダウンタウン、東のウンナン」と称されるほどの人気者となる。 コンビの頭脳である内村はこれまでいくつもの冠番組を持ち、自らネタを披露するだけでなく、他の芸人をプロデュースする役割も果たした。また、時に映画監督としてメガホンを取り、2017年から2020年にかけては紅白歌合戦の総合司会も務めた。お笑いタレントとしてひとつの頂に立ったと言っていいだろう。 だが、並び称されるダウンタウンがいかにも芸人らしい数々の豪快な伝説をもって語られるのに対し、内村に関するその類いの逸話は実に地味で控え目だ。 バラエティー番組の金字塔『笑っていいとも!』を立ち上げたディレクターとして知られる放送作家の永峰明は『冗談画報』や『笑いの殿堂』などのネタ番組でウンナンの新たな魅力を掘り起こした。その永峰は内村の特異性をこう話す。 「内村は人間的にはごく普通なんで。芸人というより、芝居系の人なんですよ。酒もそんなに好きじゃないけど、そういう場で仕事の話をするのは好き。南原は有名になって女にモテたいみたいのもあったと思うんですけど内村はそれもない。何よりも芝居を、コントを作りたい人なんです。だから、飲みに行くのでもそういう系の店には行ったことがないですね」 そういう系とは、つまり女の子がいる店のことだ。永峰が続ける。 「笑組は浅草芸人の流れを汲んでいますけど、この頃、東京のお笑いの世界でそうじゃない人たちが出始めた。それが内村みたいな演劇系の人たちだったんです。出川(哲朗)らと『劇団SHA・LA・LA』もやっていましたしね。芸人のセンスじゃなくて、芝居のセンスで勝負する人たち。芸人は素がベースだけど、芝居系の人たちは演技がベースにある」
その頃の演劇界は新劇と呼ばれる難解なものに取って代わり喜劇性の高いものが主流になりつつあった。柄本明が座長を務める劇団東京乾電池や、佐藤B作が主宰する劇団東京ヴォードヴィルショーなどもそうだ。 「お笑い」と演劇が接近し、コントに出演することは芝居の勉強にもなった。1987年に劇団内でSET隊というコントグループを組み、そこから役者として成功を収めた岸谷五朗や寺脇康文などは新ルートの代表格だ。 内村と南原は高校卒業後、1983年に横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)に入学している。内村は映画監督、南原は役者を目指していた。学校には漫才の授業があり、そこで2人は初めてコンビを組んだ。その際、講師を務めていた名漫才コンビ、内海桂子・好江の好江に才能を見いだされ、同コンビが籍を置くマセキ芸能社に入ったのだ。 ウンナンは笑組と同じく好江の「弟子」と紹介されることがあるが、ウンナンの場合はあくまで形式上のことだった。当時、好江のカバン持ちをしていたゆたかの相方、かずおが思い出す。 「ウンナンさんは最初、お笑いなんてやりたくなかったと思いますよ。2人は名前を売るためにコントをやるんだと話していましたから。南原さんは師匠のお茶汲みやカバン持ちをやらされるのなら、事務所を辞めるって言ってたぐらいですし」 ゆたかも南原に「(自分のことを)兄弟子とは言わないでくれ」と釘を刺されたことがある。 「内村さんは何にも言わなかったですけど、内心は同じだったと思います。でも、弟子にならなくてよかったですよ。伝統やら作法やらを叩き込まれたら、あれだけ自由な発想のコントは生まれてないですから。内村さんは化粧もやらないし、衣装も用意しない。セットも簡単なものだけ。芝居の人からしたら横着しているように思われる。でも、それがオシャレに見えたし、コントをやろうとする人たちのハードルをぐっと下げた。裏方さんの仕事も楽になりましたしね。革命だったと思いますよ」