松本清張、復讐劇に大胆な邪馬台国の仮説を重ねた「東経139度線」の面白さ
物語上の珍説に重ね合わせたものは?
小川によれば、太占(ふとまに)の神事を残しているのは、新潟県の弥彦(やひこ)神社、群馬県の貫前(ぬきさき)神社、東京都の御嶽(みたけ)神社であり、また現在では行われていないが太占の記録を残しているのは五日市の阿伎留(あきる)神社、そして伊豆半島の白浜神社であって、それ以外には西の方にも東の方にもない。太占の神事とは、主には鹿の肩甲骨を焼いて、その面に生じた割れ目で吉凶を占うことである。これを鹿卜(ろくぼく)とも言い、また亀の甲羅を焼く場合もあって、この場合は亀卜(きぼく)と呼ばれる。 そして小川によると、先の5つの神社はいずれも東経139度線上にある。もちろん10分程度のズレのある神社もあるが、白浜神社のように2分程度のズレしかないものもあり、これらはほぼ東経139度線上にあると言っていい。これはただの偶然とは言えないのではないか。この139を平安時代以前の読みで言うと、「ヒイ、ミイ、ココノツ」となり、これを続けて言うと、「ヒイ、ミイ、コ……」となる。これはあの邪馬台国の女王卑弥呼のことを暗示しているのではないだろうか。 小川はさらに説を展開する。四世紀の頃は、部族間の権力闘争で敗北した部族は中央政権によって関東に移されたようで、狗奴(くな)国と争っていた邪馬台国は滅亡したのではなく、東の方に移るか、あるいは移されたかしたのである。また『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼は「鬼道」に通じていたとある。この「鬼道」とは北方大陸系のシャーマンであろうことは定説化されているが、それは太占の神事、すなわち鹿卜、亀卜のことである。そうすると、関東のほぼ139度線上に南北一列に散在している鹿卜、亀卜の神事は「邪馬台国の鬼道の名残」ではないか。もちろん、グリニッジ子午線と基点として作成された近代の「人口的目盛」の139度をもって、卑弥呼(ヒミコ)に当てるのは「ナンセンス」かも知れないが、しかし、これは偶然とは思えない。卑弥呼を崇拝していた邪馬台国の部族が「本能的に択んだ場所」が東経139度線上にあるのは、「これは天の啓示だと思う」、と小川は自説を熱く語る。 もちろん、小川長次の説は珍説である。まず、太占の神事を行うのは東経139度線以外の地、たとえば大分県の宇佐神宮や茨城県の鹿島神宮にもあるし、ほかにも小川説が成り立たない傍証を挙げることができる。では清張は小川説を全く認めていなかったかと言えば、必ずしもそうではなかったと考えられる。小川説は当時清張が唱えていた邪馬台国東遷説に適合もしていたからである。清張は、古代において邪馬台国が関東地方に移った可能性もあると考えていたのである。 小川説が珍説であることを十分に承知しつつも、松本清張は実際の古代史においてあり得たかも知れない可能性を、「139度線」で大胆に展開したのである。古代史についての清張の学識と奔放と言える想像力とが結びついて初めて可能となった面白い読み物である。 (ノートルダム清心女子大学文学部・教授・綾目広治)