「予備知識ゼロ」のほうが有利!…これまで無理解と誤解にさらされてきた難解な「フッサール現象学」を「誰でも理解できる方法」
「自然的な認識構図」を「逆転」する理由
別の例を出そう。 あなたが一神教を信じ、誰かが多神教を信じているとしよう。あなたが富の平等な分配を正しいと考え、誰かが個々人の正当な利得の結果を認めるべきと考えているとしよう。あなたが民主主義を正しいと信じ、誰かが社会主義を正しいと信じているとしよう。とうぜんこれらの考えは対立する。 この場合、あなたがもし事前に、一神教や平等な分配や資本主義が「正しい考え」であるという信念をもっているなら、問題はどこにもゆきつかない。ここではむしろ、なぜ異なった考え方や信念(確信)が形成されるかの理由がまず解明されるのでなくてはならず、そのことではじめて、異なった考えがいかに調停されるか、いかに新しい共通了解が創り出されるか、という新しい認識の道が開ける。これが「本質の認識」である。 フッサールが、「現象学的還元」の方法によって自然的な認識構図を逆転せよ、と主張する理由がここにある。「本質」の認識の領域では、一切の認識について「リンゴが存在するので、赤いや丸いが見える」ではなく、つねに、「赤いや丸いが見えるので、リンゴの存在確信が現われる」という根本的な視線変更が必要とされる。まず価値の多様による意見や理説の違いや対立を前提として考える必要があるのだ。 「本質の認識」においては、「何が事実として正しいのか」という問いを前提として立てることはできない。ここでは、意見や理説の差異、その対立の本質的な理由がまず解明されねばならず、そのことではじめて調停や共通了解の可能性が見出されうる。このことが、フッサール現象学において、客観や存在の前提的な事実性がはじめに「エポケー」(いったん留保)されることの理由なのである。
読んでいて理解できなくなったら思い起こすべきこと
『イデーン』超解読の読者は、現象学の根本動機が認識問題の解明にあり、それゆえ根本方法がこの必然的な視線変更にあることをつねに念頭におかねばならない。この視線変更の理由を理解することなしには『イデーン』のテクストは、難解な呪文の海になるだろう。ここまでの現象学解釈の混乱は如実にそのことを示している。 いま述べた現象学的還元という視線変更の理由は、しかし、『イデーン』ではそう明快に説明されてはいない(むしろ、後に書かれた『イデーン1』あとがきに、かなり整理されて書かれている)。ここでフッサールが詳細に描いているのは、視覚経験における対象の「存在確信」の構成(現象学における「構成」はつねに対象についての確信形成を意味する)の基本図式である。つまり机や紙といった事物の「存在確信」が意識のうちでいかに「構成」されるかについての、彼自身の内省による詳細な記述である。 この内省を彼は「本質観取」と呼ぶ。つまり「現象学的還元」とは、まず右に見た視線の変更のことであり、つぎにその上で遂行される内省の作業(本質観取)を意味する。 最後にもう一つ。一般に、『イデーン』は読み進むうちにどんどん難解になり、何を記述しているのか理解するのが難しくなる。私の読者へのアドバイスは、話が混乱してきたら、つねに、現象学は対象の意識内での確信構成の記述だということ、また、このいわば不自然な視線の変更は、「主観─客観」の難問を解明するための意図的な方法だということを、思い起こしてほしい。 意識のうちで対象確信がどのように構成されるか、この構造を内省的に観取して記述すること。これが「本質観取」の方法だが、この「本質観取」の方法を自分なりに行なうことができるようになれば、それは哲学にかぎらずあらゆる思考に適用することができる。そうなれば、読者にとって現象学はある意味で「免許皆伝」となるだろう。 *
竹田 青嗣、荒井 訓