「予備知識ゼロ」のほうが有利!…これまで無理解と誤解にさらされてきた難解な「フッサール現象学」を「誰でも理解できる方法」
そこにあるリンゴを例にとると…
さて、フッサールはこう主張する。この難問は「現象学的還元」という方法によってのみ解決できる、と。『イデーン』はこの方法の実践として書かれているのだが、その説明はやはりひどく難解で分かりにくい。 そこで「現象学的還元」という方法がどのようなものかを、分かりやすい例で示してみよう。 いま私が目の前にリンゴを見る。このとき、ふつうは誰も、「リンゴがそこに存在しているので(原因)、私に、赤い、丸い、つやつや、が見える(結果)」と考える。これは自然的見方と呼ばれる。 「現象学的還元」とは、この自然な物の見方を逆転することを意味する。すなわち、「私に、赤い、丸い、つやつや、が見えるので(原因)、私はそこにリンゴが存在するという確信をもつ(結果)」。 このように、対象認識の自然な見方を徹底的に変更すること、存在があって主観の認識があるという見方を、主観の認識があって存在確信が生じるという見方に変更すること、これが現象学的還元という方法の要諦である(一般の解説書では解説自体が難解でこのことがほとんど理解されない)。 これは言い換えれば、一切の認識を「確信」の成立と見なすこと、を意味する。この方法によってヨーロッパ認識問題の難問は解明される、そうフッサールは主張する。 だが、この視線の変更によっていかにして認識問題が解明されるのか。詳しい解説は序論にゆずって、なぜ現象学がこの不自然な視線の逆転をとるかについて、大きな見取り図をおこう。 キーワードとなるのは、「事実の認識」と「本質の認識」、である。 リンゴの認識、すなわち自然事物の認識が問題なら、「リンゴが存在するので、私は赤い、丸いを見る」という自然な見方をあえて逆転する必要はない。自然科学の認識は、すべてこの存在(客観)→認識(主観)という認識の構図を前提としている。この領域では、この構図が自然であり合理的なのだ。 しかし、哲学が主題とする人間や社会の領域では(以後人文領域と呼ぶ)、「事実の認識」ではなく「本質の認識」が問題となる。この領域では、リンゴがあるので赤いや丸いが見えるという認識構図は、合理的でないどころか決定的な矛盾が現われる。なぜだろうか。 人文領域では、その認識は「事実」の認識ではない。その理由をひとことでいえば、そこに必ず価値の要素が入り込むからである。 社会の認識とは、社会が事実として何かの認識ではなく、いわば「何がよい社会か」という観点が必ず問題となる。つまり、単なる事実認識ではなく、社会的な善悪や正義・不正義の普遍的な基準が求められるのである。そしてここでは「価値観の相違」が現われ、そのため普遍的な認識(共通認識)を取り出すのは容易ではない。