埼玉県行田市を走った馬車鉄道と北武鉄道、北埼玉の興味深い鉄道史
具体的な路線を見ると、吹上駅北口から出発し、すぐに元荒川を渡っていたが、当時と現在では川の流路や橋の位置も変わっており、この付近は正確な廃線跡をたどることが難しい。元荒川を渡ると北西に進路を取り、現在の県道66号線上を進んだ。 上越新幹線の高架をくぐった先のY字路を右に進み、水城公園(忍城址)方面へと向かう。南大通りに突き当たったら右折し、水城公園の南を行く。 続いて「高源寺前」交差点で左折し、古墳通り(県道77号線)に入る。この角にある高源寺は、忍城の戦いで城の「佐間口」を守備した武将、正木丹波守利英が建立した寺院である。忍城の戦いの後、利英は武士の身分を捨て、僧侶となって戦死者を弔う道を選んだ。映画『のぼうの城』では、利英役を佐藤浩市さんが演じていた。 古墳通りに入ると、すぐ左手に弓なりに旧道が分かれ、佐間天神社がまつられている。馬車鉄道はこの旧道を進んでいた。さらに古墳通りを800mほど進むと、県道128号線に突き当たるので、これを右折する。このあたりが行田の旧市街地の中心である。
このままにぎやかな通りをぶらり歩いて行くと、新忍川のほとりに大長寺という寺院がある。この大長寺の手前を左に入ったところに馬車鉄道の発着所があった。現在、「行田馬車鉄道発着所跡」の石碑が建っているあたりだ。当初の計画では、馬車鉄道はさらに新忍川を渡り、長野村(現・行田市長野など)に至る予定だったが、予算不足により、ここまでで打ち切られた。 こうして歩いてみると、旧城下町ということもあるが、ずいぶんと鋭角の曲がり角が多い路線だったことがわかる。 ところで、この馬車鉄道の経営は非常に厳しかった。旅客数を見ると、1902(明治35)年に年間10万3,965人(1日平均約284人)の利用があったが、3年後の1905(明治38)年には、半分以下の年間4万5,581人(1日平均約124人)にまで落ち込んでいる(数字は行田市郷土博物館提供資料による)。 経営不振の原因は貨物輸送の面にもあり、足袋の輸送に馬車鉄道はそれほど使われなかったという。その理由について、『行田の歴史 : 行田市史普及版』には、「有力な足袋業者の多くが自前調達の荷馬車で輸送したか、あるいは日本鉄道と提携した運送業者(鉄道貨物取扱業者)などに依頼したと推測される」と記載されている。 足袋は軽量なので、吹上駅までならば自前の荷車で事足りたということなのだと思われる。馬車鉄道の設立の意図は足袋輸送の効率化よりも、むしろ公共交通の整備など別の部分に比重があったと見るべきなのだろう。 いずれにせよ、経営難に陥った忍馬車鉄道は1905(明治38)年に解散。同年、新たに行田馬車鉄道が設立され、事業を継承したが、以後も大幅な収支改善は見られなかった。 ■北武鉄道計画が浮上するも… 一方で、行田の足袋の生産量は、日清戦争(1894~1895年)、日露戦争(1904~1905年)を通じて軍用足袋の特需があり、「生産量は飛躍的に増大」(『行田の歴史 : 行田市史普及版』)していた。明治10年代後半に年間生産高50万足程度だったのが、明治30年代後半の1905(明治38)年には445万足に達している。 このように、著しく発展した忍町の商工業に着目し、再び北埼玉エリアを横貫する鉄道を敷設しようという計画が持ち上がった。そのひとつが、羽生町(当時)の人々が発起人となって進めた北武鉄道であり、熊谷~忍~羽生間を結ぶ路線が計画された。