宮城・女川「出島大橋」開通 島の宅配便、笑顔届けて半世紀 船荷扱う女性の思い
宮城県女川町の本土側とつながる橋が19日開通した離島・出島(いずしま)。木村洋子さん(74)は東日本大震災後の一時期を除き、船で運ばれる荷物を半世紀以上扱ってきた。巡航船が来年3月に島への寄港を終えるのに伴い、木村さんは仕事に区切りをつけるつもりだ。(石巻総局・山老美桜、松村真一郎) 「現実じゃないみたい。素晴らしい景色に圧倒される」。出島大橋であった開通式に出席した木村さんは、橋の上から古里を見つめて感嘆の声を上げた。 出島で生まれ育ち、中学卒業後、仙台市の美容師専門学校に通った。一度は島を出たが、父が開いた美容室で働くため、2年ほどで戻った。 20歳の時、島で商店を家業としていた宏さんと結婚。日用品のほか、巡航船が運ぶ出島地区の配達物も扱っていた。 島民から預かった配達物を本土行きの船に託す。船で運ばれてきた島民宛ての荷物は店で引き渡したり、配達したりした。 離島にとって、船は食料や必需品など生活物資を運ぶ重要な命綱。一度に約100個の配達物を扱うこともあり、荷降ろしだけで一苦労だった。元日と荒天による欠航以外、休みはほぼなかった。 ■震災時の苦労乗り越え、残り3ヵ月「最後までやり切る」 2004年、ともに店を切り盛りしてきた宏さんが病気で亡くなった。仙台市で働く長男の手伝いもあって仕事を続けたが、震災の津波で出島港近くにあった家や店は全壊した。 親戚が住む山形県に避難したものの、半年後には島に戻った。「出島のことしか頭になかった。生まれ育った島は私の根っこだから」。桟橋が流失して船着き場はなく、船は不定期運航。それでも荷受けを再開した。 震災前、1日に6便あった巡航船は現在3便、島民は約500人から90人に減った。1日の配達物も数えるほどになった。 開通を迎えたこの日も、いつも通り午前8時ごろに船で運ばれた朝刊を配達。足の不自由な高齢者宅では玄関で「置いておきます」と声をかけた。 50年以上続けた仕事は残り3カ月ほど。「これまで島内外の多くの人たちと接してきたので寂しくはない。最後まで仕事をやり切り、これからは島に来る新しい人たちとも関わりたい」 ■「涙が止まらない」「感無量」喜ぶ島民ら 買い物や通院、観光など四方を海に囲まれた島の生活が変わる。女川町の出島と本土を結ぶ出島大橋が開通した19日、橋を渡った島民や元島民らは「涙が止まらない」「感無量だ」と喜びをかみしめた。 「感動して友人と抱き合った。本当にうれしい」。東日本大震災まで島内で民宿を営んでいた内海とめ子さん(84)は開通式後に橋を歩いて渡り、目に涙を浮かべた。 震災の津波で民宿は流失。現在は孫2人と石巻市で暮らす。 島と本土を結ぶ巡航船は1日3便。「これまでは船の時間に縛られて行きづらかったが、好きな時にいつでも行ける」 夫久義さんは病気で、長男久仁彦さんは漁の事故で亡くなった。「2人もこの日を迎えたかっただろうね」。空から橋を見つめる家族に思いをはせた。 元島民の須田信一郎さん(79)は津波で自宅が被害を受け、町の本土側で生活しながら漁のために島に船で通う。「車で島に行けるようになり、利便性は上がる」と笑顔を見せる。 島の人口は震災を機に激減し、11月末時点で90人。「移住する人が増えて、明るい島になるといい」と期待した。 一般車両の通行が可能になった午後3時には、本土側から島に渡る多くの車両が列を作った。 島を初めて訪れた栗原市の無職大内裕子さん(66)は「海と漁船、橋の風景が素晴らしく、心が洗われるような気がする。開通を機に、島が発展してほしい」と絶景をスマートフォンのカメラに収めた。
河北新報