「所持金はわずか5円だった」18歳落合博満、“失敗続き”の日々「練習はサボってばかり」高校野球のシゴキを嫌った男が25歳でプロになるまで
40歳での鮮烈なFA宣言、巨人へ電撃移籍した落合博満……1993年12月のことだった。 あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 当時を徹底検証する書籍「巨人軍vs.落合博満」が発売される。その書籍のなかから、“落合博満前夜”を紹介する。「ポケットに5円しかなかった」18歳の青年はいかにしてプロ野球選手になったのか。【全2回の前編/後編も公開中】 【秘蔵写真】「白いスーツ姿がカッコいい…」ロッテ時代の落合博満・信子夫人&「見たことある?」社会人・東芝時代の落合など貴重ショットをすべて見る ◆◆◆
落合博満の年俸は360万円だった
「2年目を迎え、ひとつ夢もデッカク持とうじゃないか――なんて、20ホーマーで、打率2割8分以上なんて目標をかかげてみました。試合は65以上出場。ファームでくすぶってるのは、もうご免ですから」(週刊ベースボール1980年1月21日号) プロ2年目を迎える年俸360万円の男は、思い切ってそんな新年の誓いを立てた。ルーキーイヤーの前年は、36試合で打率.234、2本塁打という屈辱的な成績に終わった。二軍にはプロのユニフォームを着ているだけで満足しているような連中もいて、ここに長くいたら、いつか自分もその雰囲気に同化してしまうのではないかという恐怖もあった。オレはこのまま終わるわけにはいかない――焦りと、希望の狭間でもがくのは、まだ何者でもなかった、26歳の落合博満である。 ロッテの山内一弘監督は「打率.250は残せる素質はある。落合が八番あたりを打てば打線がグッと厚みを増す」と控え目な期待を口にする一方で、当初はあんなアッパースイングじゃプロでは通用しないと酷評していた。1年目はイースタンワーストタイの6打席連続三振、相手ベンチからは東芝府中出身の背番号6に対して、“東芝の扇風機”なんて野次も飛ぶ。25歳でプロ入りしたオールドルーキーにはとにかく時間がない。10代の若手選手たちのように、失敗も成長の糧だと許容される立場ではなかった。落合は周囲の雑音にも、「どうせ打てないなら、自分の好きなようにやるさ」と開き直ってバットを振った。
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