「ドラフト2位と4位がまさかの指名拒否でも…」ドラ3・落合博満「カネは問題じゃない」“25歳のルーキー”はこうしてロッテに入団した
40歳での鮮烈なFA宣言、巨人へ電撃移籍した落合博満……1993年12月のことだった。 あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 当時を徹底検証する書籍「巨人軍vs.落合博満」が発売され、即重版と売れ行き好調だ。 その書籍のなかから、“落合博満前夜”を紹介する。18、19歳とニートのような生活だった青年は、ドラフト3位指名され、当時の“不人気球団”に入団する。【全2回の後編/前編も公開中】 【秘蔵写真】「白いスーツ姿がカッコいい…」ロッテ時代の落合博満・信子夫人&「見たことある?」社会人・東芝時代の落合など貴重ショットをすべて見る ◆◆◆
「初めはよく吐いていましたね」
<18、19歳とニートのような生活を送っていた落合博満。そんななか1973年11月1日、東芝府中野球部のセレクションに見事合格する。> 20歳になるため、そろそろ働かなければという思いも当然あった。青春が終わり、人生が始まったのだ。落合は1974年1月から臨時工として入社。当時の東芝府中野球部監督の武田泰紀は、初めてその打球の勢いと飛距離を見たときに驚き、すぐ四番に抜擢する。武田は「サボリ癖のことは聞かされていましたよ。でも納得するまで黙々と練習してましたね」と当時を回想する。 「落合は20歳で入社。同期の新人は彼よりも年下だったんですが、トンボかけもタマ拾いも、皆と同じようにやってましたよ。肩と太腿を痛めていると聞いてはいたんですが、本人は何も言わないので練習も皆と同じ。最後にグラウンドを30周走るのですが、初めの頃はよく吐いていまし たね」(週刊宝石1992年5月7日・14 日号) 電力システム制御部電力配電盤課で8時から17時まで仕事をやって、それから練習。同僚との麻雀も楽しんだ。だが、自由人の落合はここも1年で辞めようとして、姉からどやされ、ときに泣きつかれ、なんとか踏み止まる。初任給は3万5000円で、5年後に辞めるときは10万8000円だった。
「ドラフト2位と4位がまさかの指名拒否」
日々の練習で錆び付いた身体が次第に研ぎ澄まされ、落合のバットは凄味を増す。ライト側に打球が飛びすぎて防球ネットを飛び越えてしまうため、東芝府中のグラウンドには、従来より6メートル高くした“落合ネット”が設置された。入社3年目の1976年、オープン戦では4打席連続ホームランの離れ業。都市対抗野球の予選決勝では3ランを放ち、日産を破り初めて夏の本戦に出場する。社会人時代は5年間で打率・389、70ホーマーを記録。世界選手権では全日本の三番を打った。 そして、江川卓の“空白の1日”で揺れる1978年ドラフト会議で、ロッテオリオンズから3位指名を受けるのだ。前監督、金田正一が「狭い球場にあった、本塁打を打てる選手をとれ」と厳命し、リストアップされたのが社会人屈指の飛ばし屋・落合である。前年は阪神から誘いがあったが、守備と肩に不安のある落合の評価はどの球団もそこまで高くなく、実際にロッテも全日本の四番で強打の外野手、菊地恭一(東芝)を2位指名している。しかし、スカウト部長の三宅宅三は、東芝府中の関係者に「三宅さん、(菊地より)落合の方が上ですよ」とハッキリ言われたという。ちなみにこの年のロッテは、この菊地と4位の武藤信二(我孫子高)が入団拒否。指名4人中2人が入団拒否という不人気ぶりである。まだ“人気のセ、実力のパ”の価値観が根強かったが、すでに24歳の落合は、プロだったらどこでも行くつもりだった。「契約金は問題じゃない。私はただプロでやりたいだけです」と宣言して球団側を驚かせたほどだ。
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