【本と名言365】坂倉準三|「われわれは絶えず後の時代に正しいものを伝えるための…」
これまでになかった手法で、新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。ル・コルビュジエに学び、日本の都市空間にも大きな影響を与えた建築家の坂倉準三。社会に対してより良いものを提示すべく闘い続けた建築家は、自らの仕事のよろこびと責任を語った。 【フォトギャラリーを見る】 われわれは絶えず後の時代に正しいものを伝えるための権利と喜びと同時に責任と苦労とを持たなければならない。 家具から建築、そして都市計画まで。68歳で亡くなるまでに約300もの実作を残した建築家が坂倉準三だ。その生涯を賭して成した仕事の幅の広さは師であるル・コルビュジェの精神を受け継いだものだろう。東京帝国大学文学部で美術史を専攻した坂倉は在学中にル・コルビュジエの本に感銘を受け、彼に学ぼうとフランスへ渡る。建築を学んでいなかった坂倉はル・コルビュジエの勧めに従ってパリで建築を学び、事務所へ入所。シャルロット・ペリアンら、パリの同僚たちからサカと呼ばれて愛された坂倉は、自身がそうであったように後進の建築家を多数育てた。 同時に坂倉は戦後日本の都市空間を育てた建築家でもある。東京や大阪を訪れたことのある人で、坂倉の空間を体験したことがない人はほとんどいないだろう。渋谷、新宿、そして難波における鉄道ターミナルは坂倉によってデザインされ、再開発がすすむいまも随所に坂倉の描いた線が残る。小田急百貨店新宿店、東急東横店、髙島屋大阪難波新館などの百貨店、商業施設、文化施設と一体化した駅は、戦後日本における民主的な広場となった。丹下健三以降の建築家たちが提案した都市のあり方と違い、実際の都市と向き合った坂倉は混沌とした街のなかで人の流れを巧みにデザインした。いまなお現役で人々を受け止める新宿駅西口広場は、先ほど閉館した小田急百貨店新宿店本館も含め、世界有数のメガターミナルである新宿駅の膨大な人々を空間の連なりで受け止めてきた。雑誌『建築文化』のインタビューで、建築は民衆のものであるという坂倉は、「われわれは絶えず後の時代に正しいものを伝えるための権利と喜びと同時に責任と苦労とを持たなければならない」と語っている。建築は常に人のためにあるのであって、その新しさも人のためにあるべきだと語る。 一方で〈神奈川県立近代美術館〉〈東京日仏学院〉、現在は〈岡本太郎記念館〉となった岡本太郎自邸をはじめとする数々の建築作品、さらに天童木工でいまも製造が続く家具の数々など、多岐にわたる仕事も追求した。1941年にシャルロット・ペリアンと協働した「選擇・傳統・創造」展、1957年と1960年のミラノ・トリエンナーレ日本室展示の会場構成、1957年設立のグッドデザイン商品選定制度の初代選定委員長など、日本のデザインにおいても大きな役割を果たした。キャリア初期から晩年まで、一貫して社会的なあり方を追求しつづけた坂倉はまさに戦後日本の社会をもデザインした建築家であったのだ。
さかくら・じゅんぞう
1901年岐阜県羽島郡生まれ。東京帝国大学文学部美学美術史学科在学中に建築を志すようになり、ル・コルビュジェに師事しようと1929年に渡仏。ル・コルビュジェの勧めで専門学校にて基礎を修め、1931年から1936年までアトリエのスタッフとして都市計画や住宅設計に携わった。1936年に帰国後、パリ万国博覧会日本館・設計監理のため再渡仏。1937年に建築部門のグランプリを受賞。1940年坂倉建築事務所を設立。1969年没。
photo_Miyu Yasuda text_Yoshinao Yamada editor_ illustration_Y...