「岩倉具視の五百円札」に「板垣退助の百円札」…昭和の紙幣が「現役バリバリ」だった頃の「驚き」と「面倒さ」
日本国にとって、明治日本が大事なのだ
1972年5月に修学旅行で山口県の萩に行ったとき、クラスメイトが「タクシーでお釣りを百円札でもらった」と騒いでいた。1972年当時、都会(私の住んでいたのは京都という微妙な都会)では見なくなった百円札も、地方に行けばまだ使っているのかと驚いていた。(長州の萩で見たから長州藩出身の肖像を大事にしていたのか、といいたいところだが、板垣さんは土佐の出身) つまり1972年は百円札を使う人がかなり減っていたのだ。 お札のメンバー交代歴史を並べてみる 百円札 聖徳太子―伊藤博文―(いまは百円硬貨) 五百円札(1951開始)-岩倉具視―(いまは五百円硬貨) 千円札 聖徳太子―伊藤博文―夏目漱石―野口英世―北里柴三郎 五千円札(1957開始)聖徳太子―新渡戸稲造―樋口一葉―津田梅子 一万円札(1958開始)聖徳太子―福沢諭吉―(福沢続投)―渋沢栄一 いちおう戦後に流通していたお札である。 あらためて、聖徳太子を除いて「明治日本で活躍した人たち」であることがわかる。日本国にとって、明治日本が大事なのだ。それでいいとおもう。 明治期に活躍した人の多くは徳川時代生まれである。 このなかで、つまり日本の紙幣の肖像になった人のなかで、明治以降に生まれた人は二人しかいない。 樋口一葉。 野口英世。 樋口一葉は明治5年生まれ、野口英世は明治9年生まれで、一葉が4つ上だ。 ただし樋口一葉は数えて25、満だと24で明治29年になくなっているので、明治に活躍した人ではある。活躍といったって「奇跡の14か月」と呼ばれて、1年ちょっとくらいなんだけど活躍は活躍だ。 野口英世が戦後、お札になった人のなかではもっとも若い。 彼は北里柴三郎の下で働いていたことがある。まあ北里と野口はどちらもノーベル医学賞の候補になったほどの明治時代の著名な研究者だったからお札になったということだろう。 野口から続いて、また北里の「医学系の千円札時代」が続くのであった。 ……・・ 【さらに読む】『実は恐るべき性豪…渋沢栄一と北里柴三郎「新札の顔」の意外な共通点』
堀井 憲一郎(コラムニスト)