「岩倉具視の五百円札」に「板垣退助の百円札」…昭和の紙幣が「現役バリバリ」だった頃の「驚き」と「面倒さ」
取り違えた経験、ありましたよね
百円札;板垣退助(1953年から) 五百円札:岩倉具視(1951年から) 千円札:伊藤博文(1963年から) 五千円札:聖徳太子(1957年に新造) 一万円札:聖徳太子(1958年に新造) 一万円札と五千円札は出現当時はついにこんな高額紙幣が、と驚きの目で迎えられていたはずだけれど、どっちも聖徳太子だったというのは、いまさらながら、どうかとおもう。 一年違いで最高紙幣を連続して出したから同じにしたのだろうか。ちょっと雑である。 実際、五千円札と一万円札を取り違えるというのは、何度も起こっていた。よく見かけていた。身に覚えのある人もたくさんいるだろう。昭和らしい面倒さである。 千円札は、敗戦後のインフレで登場した。 さかのぼると、1943年(昭和18)戦争中に日本武尊(やまとたける)の千円札が出ているが、これは流通していないらしい。そのころ店で千円札を出されても、いまでいえば50万円とかそれぐらいの価値はあるだろうから、お釣りに困る。ふつう使えない。 戦後になって出てきたのが聖徳太子の千円札でそれは1950年(昭和25)であった。当時の最高紙幣である。この時代、最高紙幣は聖徳太子ということに決まっていたかのようだ。 その太子様が伊藤博文に変わったのが1963年(昭和38)で、彼が夏目漱石に変わるまで21年だった。ここは何となく20年周期で変わっている。伊藤博文の千円札は、かなり馴染み深い。 千円札が伊藤博文で、五百円札が岩倉具視、そして百円札が板垣退助というのは、それぞれ同時期の政治家である。特に岩倉と伊藤は明治10年代の日本中枢にいた人でその二人が同時にお札だったのだなあ、とあらためておもう。明治維新色の強いお札の時代であった。 岩倉具視の五百円札は、千円札と百円札よりあと1951年(昭和26)に出た。
板垣死すとも百円札は死せず
岩倉具視のまま、暗い色が明るい青に変わるデザイン変更があったが、ずっと岩倉具視は変わらず、そのまま昭和57年(1982)に五百円に取って代わられるまで使われていた。 だからわが国の五百円札の肖像は岩倉具視ひとりである。 そういえば、うちどっかの引き出しにまだ岩倉具視の五百円札があったはずである。使いどきを失ってしまって、そのまま置いてある。 百円札は最後は板垣退助だった。 板垣死すとも百円札は死せず。 百円札はいまでも使えます。だいたい拒否されるとおもうけど。 板垣の前は、聖徳太子だった。1300年くらい飛ぶ。聖徳太子は人気だ。その前は藤原鎌足の百円札だった。この二人は近い。太子存命中に鎌足は生まれている。 聖徳太子の百円札時代の話だけど、戦争前の好景気の時代、1940年(昭和15年)くらいに、給料がどんどん上がって、ボーナスに百円出て、百円札で支払われて家族が驚いた、という話を落語家の桂米朝が昭和のころよくマクラで使っていた。 長屋住まいの人は生まれてこのかた百円札など見たことがなく、近所の人も集まってきて、うちの婆さんに見せてやりたいと長屋中をぐるっと百円札が廻って戻ってきた、という話である。まあ、落語だからすべて信じても仕方ないが、でも百円札を見ずに死んだ人も多かった、というのはたしかだとおもう。それが1940年(昭和15)ころのはなし。 板垣退助の百円札をあまり見なくなったのが1970年(昭和45)を過ぎたあたりからである。