<マジックの裏側・木内野球を語り継ぐ>1987年夏準優勝・島田直也監督/上 初の甲子園、全国の壁 /茨城
◇経験積ませて、夏の躍進へ 八回、この日2本目となる本塁打を浴び、エース・島田はロージンバッグをマウンドにたたきつけた。 常総学院にとって春夏通じて甲子園初出場となる1987年センバツ。明石(兵庫)との1回戦は、全国レベルの力を思い知らされるものだった。 初めての大舞台に足の震えが止まらない。自信を持って投げ込んだ球がことごとく打ち返された。「精神的に子供で、打たれた理由をひじ痛のせいにしてふてくされていた」。現在は母校で監督を務める島田は振り返る。 ◇ 1984年夏に取手二で全国制覇を果たした木内幸男監督が、同年秋に常総学院へ移った。翌85年春、「名将の下で野球がしたい」と150人もの1年生が集まった。その一人が島田だった。 入学当初、力量別のチーム分けでは下から2番目だった。それでも、自信の強肩と俊足を懸命にアピール。捕手や野手も務めながら厳しい競争をはい上がり、ついに背番号1を手にした。「監督に認められようと、出されたサインを必死で実行するだけだった」 初の甲子園切符は、予期しない形で舞い込んだ。 86年の秋季関東大会は準々決勝敗退。当初はセンバツ出場校から漏れ、補欠校にまわった。しかし開幕1週間前の3月19日になって関東の1校が不祥事のため出場辞退し、常総学院の繰り上げ出場が決まった。「もちろん『甲子園に行ける』と喜んだけれど、準備はバタバタでした」。島田はひじ痛を抱え、秋の大会後は投げ込みを控えていた。チームもノックと打撃練習が主で、連係プレーなどの練習は皆無だった。 21日午後に土浦駅を出発すると、辞退校が泊まる予定だった兵庫県宝塚市の宿舎に入った。22日に甲子園練習、25日に開会式リハーサル、26日は開会式と続き、29日が1回戦。あわただしい日程の中、準備不足は明らかだった。敗戦後、木内監督は「今のうちの力では精いっぱい」と話した。 そんな合間に手を打っていた。「夏はここに泊まるんだよ」。茨城県勢が本来宿泊する神戸市のホテルに選手らを連れていき、食事をさせたという。 経験は選手を成長させた。夏、茨城大会を突破して再び甲子園に戻ってくると、島田に春のような緊張はなかったという。無欲の快進撃はここから始まる。(敬称略) ◇ 木内幸男さんが2020年11月24日、亡くなった。野球を愛し、野球に愛された89年の生涯だった。大胆な作戦の数々は“マジック”と恐れられ、歴史の浅かった常総学院を全国屈指の強豪に育て上げた。その采配の裏にどんなドラマがあったのか、間近で接した当時の選手らが証言する。 ……………………………………………………………………………………………………… <第59回センバツ> ▽1回戦 明石 000100120=4 000000000=0 常総学院 ……………………………………………………………………………………………………… ■人物略歴 ◇島田直也(しまだ・なおや)さん 1970年生まれ、千葉県柏市出身。投手。87年センバツで常総学院初の甲子園出場を果たし、同年夏は準優勝。卒業後はプロ野球・日本ハム、大洋(現・DeNA)などでプレー。97年に最優秀中継ぎ投手。通算39勝38敗9セーブ。2003年に引退後、DeNA2軍投手コーチなどを経て昨年7月から母校で監督を務めている。