【ここまで変わった古代史】古代史上最大の内戦「壬申の乱」の黒幕は一体誰だったのか?
古代史のなかでも大きな事件として取り扱われる「壬申の乱」。従来は天智天皇の後継者を巡る大海人皇子と大友皇子の争いだと考えられてきたが、最新の研究によってその真相が異なる可能性と、裏で糸を引いていたかもしれない人物が浮かび上がってきた。 従来説:天智天皇の弟・大海人皇子と、子・大友皇子の跡目争い 新説1:持統天皇が草壁皇子への皇位継承を企図した 新説2:天智天皇の失策の責任を大海人皇子が回避しようとした ■壬申の乱で一番得をするのは鸕野讃良(持統天皇)だった? 古代史上、最大の内戦として知られる壬申の乱は、天智の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)と天智の子である大友皇子の間にくり広げられた皇位継承争いである。叔父と甥との争いを制したのは大海人皇子であり、天武天皇として即位することになるのである。 壬申の乱の経緯については『日本書紀』にくわしく記されている。それによると、大津京で天智が重病になり、大海人皇子をよんで後事をたくしたところ、大海人皇子は固辞して吉野へ隠棲してしまう。671年の10月19日のことである。 ところが、大友側が天智の山陵を造るという名目で人夫らに武器をもたせて大海人との開戦の準備をしているという情報が大海人側に入る。これが発端となり、大海人の挙兵となる。急なことで最初は大海人の乗る馬も用意できなかったという。これが672年6月24日のことである。 この2日後の26日には、美濃の兵力3000人を集めるとともに、不破道を塞ぐことに成功する。この段階で東国をおさえたわけである。次いで、27日には尾張国司が兵2万を率いて帰属してくる。半月たらずでこれだけの成果を収めたのであり、急な挙兵にしては、いやにスピーディといわざるをえない。 その後も順調に作戦を展開し、7月22日にいたって大海人側の村国男依(むらくにのおより)軍が瀬田に到達した。瀬田橋の激戦を制したのは大海人側であり、大友はかろうじて戦場を逃れたが、結局は山崎で自害してしまった。 壬申の乱の経過をかいつまんでのべたが、大海人側があまりにも調子よく戦いをすすめている印象を受ける。歴史は勝者に味方するのが常であるから、『日本書紀』の記述が大海人によく書かれているのは当然として、それを割引いて考えても、大海人側の急な出兵とは考えにくいところがあるように思われる。むしろ、大海人側は、情報網をはりめぐらせており、その中でベストのタイミングで出兵したともいえるのではなかろうか。 それともうひとつ、近年、壬申の乱を後ろで企図したのは鸕野讃良(うののさらら)皇女(大海人の妻でのちの持統天皇)ではなかったかともいわれている。 その理由は、壬申の乱が起きず、大友の治世が続けば、大友のあとはその子へ受け継がれる可能性が高く、大海人に皇位継承の目がなくなるというのである。何よりも、鸕野が溺愛してやまない子の草壁 皇子が即位する可能性は限りなく低くなってしまう。こうしたことを避け、草壁皇子の即位を実現させるためには、まず何よりも大友皇子の排除が必要であった、というのが鸕野首謀説の根拠である。また、壬申の乱の背景には、天智が行った専制的な政策に対する豪族たちの不満もあったのではといわれている。 監修・文/瀧音能之 歴史人2022年11月号「日本史の新常識100」より
歴史人編集部