通算2636勝のトップ騎手が転身!福永祐一が「調教師のほうが性に合っている」と語るワケ
騎手にとって大切なのは「信頼」
「ずっと続けていたサッカーも中途半端でしたし、教員になりたいという思いはありましたけど、そう強い意志があったわけでもない。そんな中で一番になる可能性のある分野は何かと考えた時に最も可能性のあるのが騎手だったんです。せっかく与えられたこの環境を生かさず、騎手へのチャンスを逃したらきっと後悔するだろうな、と」 夫が落馬事故で瀕死の重症を負い騎手生命を絶たれたこともあって大反対の母親を押し切って騎手になった福永。思い描いていた騎手と実際に騎手になってみて、ギャップはあったのか。 「簡単には勝てないなと思いました。ただ競馬学校に入ってから馬の血統の世界に魅せられて、競馬にハマったのでやめようという気にはならなかったですね。 元々歴史や歴史ゲームが好きだったし、レースも戦術とかポジショニングとかゲーム的なんです。自分の場合、仕事もゲーム的に考えることがよくあって、例えば、乗ってみたい馬がいる厩舎があっても最初は信頼関係がゼロじゃないですか。だから、毎日調教を手伝ったりして信頼度を上げていく。 ただ、やっと乗せてもらえるようになっても最初は走らない。だけど、10番人気の馬を5着に、さらに5番人気の馬を優勝させる、というふうに実績を積むとドンドンいい馬に乗れるようになるんですよね」 「信頼は1日ではならない」と肝に銘じている福永だが、彼の所属した北橋修二厩舎の北橋調教師、その親友の瀬戸口勉調教師の2人からのバックアップは絶大で、厩舎の全ての管理馬に乗せてもらえたそうだ。 「それも父が作ってくれた縁なわけで、おかげで同期よりかなり前のスタート地点から騎手デビューできました。ただ、常に父と比べられたし、過度なプレッシャーも受けました」
30代でぶつかった壁
デビュー戦は1996年3月2日、中京競馬場。その後も武豊騎手以来の新人騎手50勝を達成。翌年には100勝するなど騎手人生の滑り出しは順調だった。しかし、1999年4月7日、小倉大賞典の返し馬で落馬、左腎臓摘出という大怪我を負う。 「大怪我をした後、その恐怖心がとれず騎手を続けられない人もいますけど、自分は引退するまでそういった恐怖心はなかった。でも、今はもう騎手には戻れないですよ。よくあんな怖いことしてたなあと思って(笑)」 騎手人生で一番辛かったのは30歳の頃だ。感謝しきれないほどの恩義を感じている北橋、瀬戸口両調教師が定年を迎え、相次いで厩舎を解散したからだ。 「グッと勝ち星が落ちた時に、やっぱり自分はいい馬に乗せてもらっていたからなんだなあ、と。そこで一度騎手をやめようという思いにはなりました」 そんな苦境をどう乗り越えたのだろう。 「伸びしろを増やすには自分1人の力ではもう限界だった。だから、馬に乗ったことのない動作解析のプロにコーチを頼んだんです。馬しか乗ってこなかった自分とタッグを組んだら劇的な化学反応が起こるんじゃないかって。結果的には思った以上で、47歳まで騎手を続けることができました」 『「もし子どもが騎手になりたいと言い出したら?」元トップジョッキー・福永祐一の「意外な答え」』に続く…
大西 展子(ライター)