日本を代表する写真家、石内都が「傷痕、遺品、嫌悪する故郷」を撮る理由
長らく男性中心だった日本の写真界だが、石内都(77)は数少ない女性写真家の一人として45年のキャリアで成功を積み重ね、国際的にも高く評価されてきた。石内が切り拓いた道があったから写真の世界に入れたという若い女性写真家も少なくない。 【画像】「遺品」や「傷痕」が物語る、石内都の写真の世界 米軍による日本の占領、広島の被爆者の遺品、亡き母やフリーダ・カーロの遺品……。石内が撮るのは、時間の流れや歴史である。 2024年の夏、アルル国際写真フェスティバルで個展が催され、ケリングの「ウーマン・イン・モーション」フォトグラフィー・アワードが石内に授与された。フランスの「ル・モンド」紙が話を聞いた。 ──あなたがここまでたどりつけたのは、どうしてだと思いますか。 写真を現像する暗室作業をするときの陶酔感を知ったから。あれが本当に快感でね。淫靡で、ほとんどセックスに近い。薬品の臭いにまみれ、ぼーっと小さな赤い電気を灯して、ほぼ完全な暗闇にこもる。バッドトリップという言葉があるけれど、暗室はグッドトリップ。未知の世界へ旅に出て、とてつもなく自由になれて、自分の前に巨大な可能性が広がる。 ──それが人生の転機に? そうね。それまでは写真についてあまり考えたことがなくて、興味もなかった。最初はデザインを志望して美術大学に行ったんだけど、これは向いていなかった。それで染織専攻に移ったけど、つまらなくてね。表現手段を探していたのに、それが一向に見つからなかった。 あるとき、友人が私の家に預けていった暗室道具一式を使ってみようかなと思って、それが写真との出会いに。26歳くらいのときだったから、また一から勉強を始めるには遅すぎた。だから写真は独学なのだけれど、あのときほど自由を感じたことはほかになかったね。
自分が女性であると意識せざるをえない町
──真っ先に撮ろうと思ったのは何でしたか。 横須賀だった。6歳から19歳まで暮らした町で、この町にはずっと嫌悪と憎悪を抱いていた。米軍基地が町の雰囲気に重くのしかかって、ガラが悪くて、物騒で、本当に息苦しい。父母と弟と暮らしていたのは、スラムのような吹きだまりの狭いアパートで、周囲では盗難も殺人も起きていたし、差別されるようなこともあった。 それで幼い頃から、人間の卑劣さや複雑さをかなり学ばせてもらった。なかなか慣れなかったのは、町のなかに国境があったこと。女の子が行ってはいけない場所もあった。 ──女の子がそこに行くと、どんなリスクがあったのですか。 当たり前だけど、強姦されるリスク。それしかないでしょ。幼かったから、まだよくわかっていなかったけど、危険は感じていた。進駐軍がいる町では、性犯罪は日常茶飯事だった。米国人が探し求めているのは、男の欲望を満たすことだってことはわかっていて、どの街角でも、それが感じられた。 横須賀は戦争の前から日本海軍の基地があったから、ずっと基地の町で、遊郭や売春や歓楽街の文化が前からあった。戦後はそういった性的な緊張状態がさらにひどくなっていた。 あの町で生まれ育った人は慣れっこになっていたけれど、田舎で育って6歳のときによそから引っ越してきた私にとってはショックで、すぐに嫌悪感を抱いた。通学路が赤線の横を通るので、本当に気持ち悪かった。 そういったことが私の心の風景を作り上げた。幼い頃から、自分が女性であると意識せざるをえない町だった。 ──なぜ10年後、そんな町に戻って、写真を撮ろうと? 米軍基地につけられた傷への、かたき討ちのつもりだった。どんなにつらくて嫌なものでも、過去とは向き合わなくてはね。暗室でネガを現像しながら、子供時代から自分のなかに澱のようにたまっていた苦しさとか痛みとか、おぞましい嫌なこと、全部印画紙に吐き出した。 それが回復へのプロセスだった。3部作になった横須賀のシリーズができあがって、自分の過去を清算はできないにしても、何か吹っ切ることができた。 ──その頃には写真家として生計を立てられていましたか。 全然。横須賀の写真集を出すお金も両親に助けてもらった。うちの両親が、ほかの親のように、私のために結婚資金を貯めてくれていたのは知っていたから、「写真以外の相手とは結婚するつもりがない」と言って300万円出してもらった。けっこうな額だよね。 でも、写真はそれくらい本気でやっていた。先生もいなければ、専門知識もなかったけれど、写真の世界に自分の居場所があると感じてはいた。当時、写真は新しい表現だったから、何をやってもよかったし、それを面白がってもらえた。それこそ自分は写真の歴史を作っている真っ只中にいる感覚だった。 でも、写真を撮るかたわら、アルバイトもたくさんして、生計を立てるために父親の会社で働いた時期もあって、写真を撮るのはおもに土日だった。横須賀の写真で木村伊兵衛写真賞をもらい、米国での展覧会で自分の写真が展示されたこともあった。それで雑誌や新聞社から次から次へと仕事が来るようになったけど、頼まれ仕事、お願いされた仕事は好きになれなかった。撮影より暗室が好きだったから。 そうしたら、ある日、信じられないことに40歳になっていた。 ──「信じられないことに」とは? えっ、40歳なのと信じられなくて。何が起こったのか。その間の時間はどこへ行ったのか。どうしたらその時間をつかまえて、写真に撮れるのか。どうしたらいいのかわからなかった。 時間は目に見えないし、手でも触れられない。臭いも、音も、形もない。見えないけれど、しっかり存在していて、私たちの姿やかたちを変えていく。女性写真家にとっては、うってつけのテーマだった。時間という肉眼ではとらえられない何かを写真でつかまえようというこだわりが出てきた。 それで思いついたのが、自分と同い年の女性50人の体を撮ることだった。正確に言うなら、その人たちの体の末端である頭や手や足を撮った。でも、顔を撮るのは、すぐにやめた。目や口に情報量が多すぎたから。逆に手と足は、ごまかしがきかない。シワやタコやウオノメといったかたちになって時間が体にたまっていた。 作品のタイトルにした『1・9・4・7』は、私が生まれた年。この作品は思いのほか、大成功となった。
Annick Cojean