レコ大&紅白出演「Creepy Nuts」DJ松永の師匠は新潟県南魚沼市のコシヒカリ農家だった!
「世界一のDJ」とコメどころ・新潟のお米農家-。一見かけ離れた肩書を併せ持つ男性が、新潟県南魚沼市にいる。DJ界の最高峰と言われる国際大会を制したこの男性は、ヒップホップユニット「Creepy Nuts(クリーピーナッツ)」のDJ松永さん(新潟県長岡市出身)の師匠だ。 【画像】DJ松永さんの師匠・駒形宏伸さん Creepy Nutsは、2024年の音楽シーンを席巻した。DJ松永さんが作曲した「Bling-Bang-Bang-Born」(ブリン・バン・バン・ボン)が大ヒット。楽曲は第66回日本レコード大賞で優秀作品賞に選ばれ、2人には特別賞も贈られた。大みそかには、NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。そんな人の師匠とは、いったいどんな人なのか。そして、なぜ農業の道を選んだのか。南魚沼市を尋ね、聞いてみた。 「Creepy Nuts」は、MCのR-指定さんとDJ松永さんの2人組だ。 紅白歌合戦の存在を意識したフレーズは、2017年のデビューシングル収録曲「メジャーデビュー指南」の中にも、2021年の楽曲「土産話」の中にも登場する。その彼らが24年、実際に大舞台への出演を果たす。 「うれしいですよね。テレビとか、日本で有名なステージにことごとく松永が出ている。すごいなと思う」 南魚沼市にみぞれがぱらつく12月中旬、駒形宏伸さん(45)は弟子の成功を喜び、笑顔を見せた。この駒形さんこそが、DJ松永さんの師匠だ。駒形さんは「DJ CO-MA」として活動し、DJ界で最も権威があるとされる世界選手権「DMCワールドDJチャンピオンシップ」のバトル部門を2006年に制した。現在は南魚沼市で240年以上続く農家の10代目として、コメやスイカの栽培を手がける。 この日、駒形さんの声はかすれていた。数日前には、山梨県で国内最大級のコメの品評会「米・食味分析鑑定コンクール国際大会」の最終審査が開かれていた。集まった全国の農家との懇親会が白熱し、声が枯れたのだという。 駒形さんが出品したコシヒカリと新之助は、コンクールの国際総合部門で、最高賞に次ぐ特別優秀賞に輝いた。国内外の4736検体に及ぶ出品の中から、わずか25検体に贈られた賞だ。しかし、目指していたのはさらにその上。“世界最高”に当たる「金賞が取りたかった」と悔しがる。 コメ作りに情熱を注ぐ駒形さんだが、子どもの頃、農家は絶対になりたくない職業だった。農家の長男に生まれ、父親や周囲からは跡を継ぐことを期待されてきた。しかし、自分のお下がりの服を着て田んぼに出かけ、泥だらけで帰ってくる父親と、スーツを着て車で会社に出勤する友達の父親を比べた。農業は「ダサい仕事」に見えた。 陸上選手を志して石川県の大学に進学したが、大学3年生の時に挫折を経験。失意のさなかでDJに出合った。 遊びに行った友人の部屋に、レコードやターンテーブルがあった。友人がレコードをターンテーブルに載せ、手でこすると、1998年発売の宇多田ヒカルのデビュー曲「Automatic」冒頭の「ドゥクドゥクドゥク…」という音と同じ音がした。二つの楽曲を、まるで一つの曲のようにスムーズに繋いでいく。格好良さに衝撃を受けた。 「これだ!」と思うと、周りが見えなくなるという駒形さん。翌日持ち物のほとんどを売り払い、12万円ほどのターンテーブルを買った。友人から基礎を学び、DJの大会のVHSをすり切れるほど見て、技術を身につけた。 DJの活動にはお金が必要だった。実家に帰り、農業を手伝うようになった。しかし、頭の中では「農業1割に対してDJが9割」。農作業の間にアイデアがひらめくと、15分の休憩時間でも山を駆け下り、家に帰って試した。睡眠時間を削り、1日10時間以上を練習につぎ込んだ。 練習が実を結び、 03年に初めて挑戦したDJの大会で予選を通過し、日本大会に進出。翌04年には、世界最高峰の大会「DMC」へと挑んだ。05年には国内大会で優勝し、世界大会でベスト8入りを果たす。06年には国内大会の連覇を経て、世界大会でも優勝を果たした。DJを始めてから3年余りでの快挙だった。 当時は音楽業界にとっての「バブリーな時代」だったという。中国、韓国、ドバイにスペイン…世界チャンピオンとして世界を巡った。しかし、翌年から収入が減り始めた。「CDが売れない時代」の到来だった。出演依頼も劇的に減ったという。 収入の不安定さから、冬の農閑期に地元でDJスクールを開くことにした。世界チャンピオンが講師とあって、新潟県内全域から20人を超える申し込みがあった。その中にいたのが、当時10代のDJ松永さんだった。 会場は魚沼市の市民会館。初講義の日は、雪国育ちの駒形さんさえ「誰も来ないんじゃないか」と心配になるほどの大雪だった。横殴りの吹雪の中、歩いてくる人影が見えた。ダウンコートに短パン、サンダルという強烈な格好。これが松永さんだった。会場から最寄り駅まで徒歩30以上かかる距離を歩いてきたという。「やばいやつが来た」と思った。 スクールでの松永さんは抜きん出ていた。性格はひょうきんで、底抜けに明るく、ピュア。既に基礎を身につけていた松永さんは、教えたテクニックは次回の講義までにできるように仕上げ、その上で自分なりの技も加えてきた。「もっと教えてくれ、もっと教えてくれという感じで、グイグイ来た」。当時から「DJで食っていく」と言っていた松永さんの姿勢は、貪欲だった。 1年ほどで教えることがなくなってからは、松永さんが駒形さんの元に遊びに来るようになった。松永さんが作った演目を見せ、駒形さんがアドバイスをする。そんな関係が続いた。 駒形さんは2006年の世界大会を制した後も、大会の別の部門での優勝を目指し、挑戦を続けていた。3位、2位、2位、3位…。あと一歩の年が続いた。当時流行していた「勝てる方法」に迎合するのを拒み、自らの信じる方法で腕を磨いた。大会で負けると「泣くほど悔しかった」。その悔しさをバネに、挑み続けてきた。ところが、2011年の大会で敗れた時、泣けなくなっている自分に気が付いた。あと一歩、どうしたら勝てるのかが分からなかった。 同じ頃、松永さんに「東京に行きます。DJで食っていきます」と告げられた。「その時、俺も現役だったら悔しいと思ったと思うんですけど、そういう気持ちが沸かなかった」。 結婚を期に、農業に本腰を入れることにした。まずはスイカ作りを学ぶことにし、農家の会合に初めて顔を出した。農業のことは分かっていたつもりだったが、「周りが何を言っているか分からなかった」。衝撃だった。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」。父親の言葉を思い出し、年下の農家にも教えを請うた。畑を見せてもらい、教わったことを基に試行錯誤を重ねた。 スイカ作りのコツを覚えてきた頃、仲間からコメの味を競うコンテストがあることを聞き、興味を持った。全国的に有名な「魚沼産コシヒカリ」なのだから、誰が出品しても金賞を取れるだろうと思った。ところが「箸にも棒にも引っかからなかった」。あの「悔しさ」にまた火が付いた。そこから、コメ作りとコンテストにどっぷりはまった。 自分のブランドを持つ夢もあった。「どうせやるなら徹底的にやりたい」。地元の農家に教えを請い、有機の肥料を自分の手で作ることにした。精米時に出る米ぬかや魚かすなどの有機物を混ぜ、1年以上発酵させて使う。さらにコメに付加価値を付けるため、農薬や化学肥料を産地基準よりも少なくする特別栽培や、無農薬栽培にも取り組んだ。手間は「想像を絶するほど」だった。特に雑草との戦いは「好きじゃないとできない」と笑う。 2020年には「お米日本一コンテストinしずおか」で最高金賞を受賞した。コンテストがコメ作りの楽しさに気付かせてくれたという。天候に大きく左右される上、田んぼ1枚1枚にもクセがある。一筋縄ではいかないところが悔しくて、面白かった。 21年には「こまがた農園」を法人化。現在、作ったコメは全量を直接販売する。ブランドの確立に向け、循環型の農業にも力を入れる。精米時に出る砕けた米を捨てずに米粉にして販売し、米粉を使ったシフォンケーキを出す店もオープンさせた。スイカの交配で活躍するミツバチの蜂蜜をケーキ店で使う。蜜を発酵させた液体は肥料にも使う。名付けて「超絶サスティナブル農業」だ。 2023年には猛暑と水不足、24年には雨と、異常気象が産地を立て続けに襲った。24年は「令和の米騒動」で市場からコメが消え、「こまがた農園」の通販サイトには注文が殺到した。少しでも早く届けるため、稲の刈り取り時期を早めるなどの対応に追われた。例年は1年間かけて売っていたお米が、12月の時点で在庫が底を尽きそうだという。値段の高止まりで、コメ離れが起きないかー。次の年が読めない状況に、心配は尽きない。 24年、弟子のDJ松永さんの作る音楽は、わが子が見るアニメのオープニングテーマになり、自然にテレビから流れてくるようになった。松永さんの活躍は「自分ももっと頑張ろう」というモチベーションにつながるという。 駒形さんは45歳になった。コメ作りは1年に1度の勝負。「あと何回作れるんだろう」と考えることがある。 駒形さんには「理想のお米」がある。強いこだわりを持つのは、やはりコシヒカリだ。「コシヒカリじゃないようなコシヒカリを作ってみたい」。 “ライバル”として名前を挙げた品種は「ゆうだい21」。宇都宮大学が開発した暑さに強い品種で、粒が大きく、うまみが強いのが売りだ。2024年の「米・食味分析鑑定コンクール国際大会」では、国際総合部門の金賞18検体のうち12検体をゆうだい21が占めた。 駒形さんは、ゆうだい21の味を「おいしいが、主張が強い」と表現する。対して、南魚沼のコシヒカリはコメ単体は主張し過ぎず、おかずを引き立てるのだという。この南魚沼コシヒカリを「今以上にしていきたい。自分にしか出せない香りや味を出せたらいい」。コシヒカリの可能性を追求し、国際大会で金賞を取る。理想の実現へ、挑戦を続けるつもりだ。