徳川家康の「外国人家臣」は、「日本人女性」と恋に落ちたのか? なぜか記録に残っていない日本人妻の正体
■細川ガラシャと三浦按針(ウィリアム・アダムス)のロマンス!? 真田広之がプロデュースと主演を務めたアメリカ製作のドラマ『SHOGUN 将軍』が米テレビ界最高の賞「エミー賞」で作品賞、主演男優賞、主演女優賞、監督をはじめ、実に18冠を達成。ドラマ自体も大ヒットを記録し、すでにシーズン2、シーズン3の製作も発表されている。 主演女優賞を獲得したのは本作のヒロイン、戸田鞠子を演じたアンナ・サワイだが、鞠子は高貴な生まれで、カトリックの信者であるなど、細川ガラシャをモデルにしていることは明らかだった。 ドラマ中の鞠子はイギリス人航海士ジョン・ブラックソーンの通訳を務めたことをきっかけに、ジョンと心を通わせていくが、このイギリス人は徳川家康に外交顧問として仕えたウィリアム・アダムス(日本名は三浦按針)をモデルとする。 どんなドラマにも男女のロマンスは欠かせない要素だが、実のところ、実際の細川ガラシャと三浦按針が恋仲になることはもちろん、ガラシャが通訳を務めたことも、そもそも二人が顔を合わせる機会もなかったはずである。 ■細川ガラシャは英語を話せたのか? 細川ガラシャは明智光秀の娘で、光秀と旧知の関係にあった細川藤孝の嫡男・忠興に嫁いだ。 一方の三浦按針が乗っていたオランダ船リーフデ号が豊後国臼杵(現・大分県臼杵市)に漂着したのは慶長5年(1600)3月16日で、按針が大坂で徳川家康に引見されたのは同年3月30日、ガラシャが亡くなったのは同年8月25日である。 この間、ガラシャはずっと大坂の細川屋敷にいた。18万石の大名の正室であれば行動の自由はなく、許可を得て外出するにしても、男女のお供が必ずいて、外部の人間との逢瀬など叶うはずもなかった。 按針が話せた言語は、母語である英語とオランダ語。ガラシャはラテン語の読み書きが多少できた可能性はあるが、英語・オランダ語会話を学ぶ機会などなく、通訳が務まるはずもなかった。 ■記録が残っていない日本人妻 三浦按針は1564年の生まれだから、まだまだ枯れるには早すぎる。家康かその側近が気を利かせ、性欲処理の相手を手配してくれたはずで、家康の御用商人だった馬込勘解由平左衛門の娘、お雪(マリア)と結ばれたとも伝えられるが、確証に欠ける。 ジョゼフとスザンナという一男一女がいたのだから、誰かと結婚したのは確かだが、どこの誰であったかは不明。当時の感覚として、「南蛮人との結婚」を不名誉なこととして、意図的に記録を残さなかったことも考えられる。 家康の外交顧問に採用されたのは按針だけではない。同じくリーフデ号の航海士でオランダ人のヤン・ヨーステンも厚遇された。日本名は耶揚子(やようす)。江戸城東の川岸に屋敷を賜り、それが八重洲という地名の起源と言われている。 彼も日本女性と結婚し、娘をもうけたと伝えられるが、その女性の素性も、娘のその後についても記録は黙して語らず、これまた意図的に記されなかった可能性が捨てきれない。
島崎 晋