池袋駅はかくして「エキブクロ」となった!
東西デパート戦争
池袋駅周辺の戦後話のつづき。 1950(昭和25)年12月、建設資金の相応負担分として民間が一部を使用する、“民衆駅スキーム”により池袋駅西口駅舎が完成、上層階に開店したのが、五島慶太が主導する東横百貨店池袋店であった。 キーワードは「人情」…「通天閣と新世界」がホンマ新世界になった! 対する東口駅舎は戦災後の応急建築でしのいでいたが、隣接する武蔵野デパートは西武百貨店と改めたうえ、地上7階建ての本建築を1952(昭和27)年9月に完成させて東横百貨店に対峙する。池袋駅の線路をはさんで、五島慶太と堤康次郎がにらみ合ったのだ。 東口駅舎が、やはり民衆駅スキームで建て替えられたのは1957(昭和32)年12月である。京都の丸物(まるぶつ)デパートをテナントとして招致した。その2ヵ月前、同年10月には駅前(現在のヤマダ電機の場所)に三越池袋店も開店していたから、東口には西武・丸物と三越、西口に東横が陣を張ってデパート合戦を繰り広げたのである。 そこへ、東武も参戦する。流通業への進出が後手に回った東武鉄道は、展開の機会を窺っていたのだが、沿線人口が増え発展めざましい東上線のターミナル、池袋に目をつけた。しかも、区画整理により闇市の淘汰が進んだ東口に比べて、西口は駅前整備が遅れ再開発が待たれていたのである。東武はこの機をとらえ、西口の玄関としてふさわしいターミナルビルを建設して、旗艦百貨店の創出をもくろんだのだ。 百貨店法の壁や地元の抵抗に配慮して、「東武会館」の名称で1959(昭和34)年1月に着工されたターミナルビルは、総面積4万6,000のうち4分の1弱を東武百貨店とし、残りはスケートリンクやお好み食堂、名画座などで埋めて1962(昭和37)年5月にオープンした。ここに池袋は、東口に3百貨店、西口に東横・東武の2百貨店の、5百貨店時代に突入したのだった。
地下鉄丸ノ内線の開業
西口に東横百貨店ができ、かたや西武が本建築完成を急いでいた1951(昭和26)年3月30日、東口の駅前広場で地下鉄4号線(のちに「丸ノ内線」と命名)の起工式が行なわれた。 東京の地下鉄は、戦前に渋谷-浅草間の3号線(銀座線)が完成していたが、以後の計画は戦禍で頓挫したまま。一方の国鉄の朝夕ラッシュはすさまじく、新たな“足”の確保が待望されていた。丸ノ内線建設はそれに応えるもので、渋谷・新宿・池袋のターミナルのうち、山手線のほかに都電とバスしか乗換え手段のない池袋から着手することになったのである。 1954(昭和29)年1月20日、まず池袋-御茶ノ水間の工事を完了し営業を開始した。ただし、このときの地下鉄池袋駅は現駅より200m新大塚寄りの仮駅でのスタートだった。国鉄の東口新駅舎工事の細部が未定だったためで、本来の場所への移設は1960(昭和35)年11月となった。 丸ノ内線で耳目を集めたのは、使用された車両である。鮮やかな赤色にステンレスの波模様が施された白帯を巻く斬新なデザインとともに、両開きの扉や車内蛍光灯の採用は、復興する日本を象徴するかのようであった。 ところで、デパート戦争のほうはどうなったか。まず、1964(昭和39)年6月、オープン2年目の東武百貨店が、隣接する東横百貨店の営業権を譲り受けて拡張した。もともと、東横の営業面積は池袋駅西口の発展ぶりに比して小さく、東武もまた百貨店法により満足のゆく規模でスタートできなかったことから、両者のあいだで1店に統合する話し合いがもたれた結果である。五島慶太は、その5年前にこの世を去っていた。 さらに、東口の丸物も百貨店法により思うほどの面積が確保できず売上げが低迷、1969(昭和44)年6月に閉店へ追い込まれた。跡地には西武系のパルコの一号店が入居して現在に至っている。 時代はだいぶ下るけれど、東口駅前の三越池袋店が閉店するのは2009(平成21)年6月だ。これで名実ともにデパートも「東が西武で、西 東武」となったのである。