米東・古豪の系譜 第3部/1 バント徹底、全国区へ 50~60年代絶頂期 /鳥取
<第91回選抜高校野球大会 センバツ> 「ナミダシナミダシテ ゴケントウニ カンシャシマス」。米子東の野球部時代の写真を集めたアルバムの裏表紙の見返しには1960年センバツの準優勝をたたえ、当時の校長が部員らに贈った版画の色紙が貼ってある。準優勝は今も山陰勢では最高成績だ。控えの外野手だった出島政明さん(75)=松江市=は色あせたページをめくり、60年近く前を振り返った。 捕手用のマスクとプロテクターを着け、少し緩めのノックを受ける。打球の正面に入り、体に当てて前に落とす練習。「後ろにそらさない」が徹底された。センバツでは堅守が評価され、三塁手だった松本勝彦さんが主戦の宮本洋二郎さんとともにベストナインに選ばれた。「自分たちのやってきたことが評価され、チーム全体で誇らしく感じた」 50~60年代にかけて米東を率いた故岡本利之監督はバントで走者を確実に進め、1点を積み重ねるスタイルを築き上げ、チームを全国レベルに引き上げた。出島さんも走者を置いた場面ではバント。飛ばすのではなく、敵失を誘うゴロを打つことも徹底した。 60年秋の新チームで出島さんは主将に推された。目標は「全員で甲子園に準優勝旗を返しに行く」。61年センバツの準決勝では、前年の決勝で敗れた高松商と再び対戦した。「今で言う『リベンジ』のつもりだったが、相手投手の荒れ球にやられた」と苦笑する。 大学では野球は続けなかった。卒業後、山陰放送の社員として県内外で勤務。定年前に松江市に自宅を構えたころは、後輩たちが思うように勝てなかった時期と重なる。遠征費用集めに尽力した。 昨秋の県大会には米子市まで応援に出向いた。「決勝の負け方が悪かったから」と不安視していた中国地区大会では、一戦ずつ力を付けて準V。伝統のそつない野球に力強さが加わったように感じた。バットスイングの軌跡が米大リークのイチロー選手と重なった。来月のセンバツは、甲子園のアルプス席で迎えるつもりだ。 〓 23年ぶりにセンバツに出場する米子東。来年創部120年を迎え、これまで幾度となく浮き沈みを経験した。その歴史をつくったOBらの証言でその当時を振り返る。=つづく ……………………………………………………………………………………………………… ◇米子東の甲子園成績(1950~60年代) <春> 年 勝敗と対戦校 1960 2-1 大宮(埼玉) 4-2 松阪商(三重) 2-0 秋田商(秋田) 1-2 高松商(香川)=宮本がサヨナラ弾を浴び準優勝 61 2-1 掛川西(静岡) 2-1 敦賀(福井)=延長十六回。矢滝は奪三振23 1-4 高松商=ベスト4 65 0-4 高松商=同校に3度目の苦杯 66 6-1 富士宮北(静岡) 2-0 高知(高知) 2-11 中京商(愛知)=ベスト8 <夏> 1950 3-2 盛岡(岩手) 7-8 鳴門(徳島)=ベスト8 54 2-1 滝川(兵庫)=延長十一回 1-3 早稲田実(東京)=2回戦敗退 56 1-0 別府鶴見丘(大分) 3-0 中京商(愛知) 1-2 岐阜商(岐阜)=延長十回、ベスト4 60 8-0 盈進商(広島) 5-12 徳島商(徳島)=2回戦敗退 (敬称略)