関ヶ原合戦で「敵中突破」を果たし、領国を幕末雄藩にまでつないだ知勇兼備の名武将【島津義弘】
島津義弘(しまづよしひろ)は、薩摩(鹿児島県)の大名・貴久(たかひさ)の2男として天文4年(1535)に生まれた。元々、島津家は薩摩・大隅・日向(宮崎県)の3国を治めていたが、義弘の祖父・勝久の代には一族や家臣団などの離反に苦しめられた。だが、貴久の時代になって、嫡男・義久、2男・義弘、3男・歳久、4男・家久の4兄弟と、家臣の上井覚兼、新納忠元、長寿院盛淳、山田有信、川田義明らが力を合わせて闘い、3国の版図を再び掌中に入れた。島津氏はその後、九州統一を目指す。 戦線が拡大することで、当主の座を継承した嫡男・義久は薩摩にあって家を守り、軍事・政治・経済などの面を指導するようになった。島津軍を率いて前線で戦うのは、義弘が中心になっていく。 この時期の九州は、日向に伊東氏、豊後(大分県)に大友氏、肥後(熊本県)に相良氏・阿蘇氏などの勢力が割拠していた。また下剋上などで勢いを伸ばした「肥前(佐賀・長崎県)の熊」と呼ばれた龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)なども台頭していた。 義弘が島津軍を率いて積極的に戦ったのは、元亀3年(1572)に伊東義祐との日向を巡る戦い(木崎原合戦)からである。これによって、島津氏は念願の3国統一に成功したのだった。敗れた義祐は、北九州6ヶ国を制圧していた大友宗麟にすがった。すると、宗麟は日向をも自分のものにしようと、出兵してきた。これを義弘が破ったのが天正14年(1586)の耳川合戦であった。この戦いでは、大軍の大友勢に押され気味だった島津軍だったが、義弘の見事な采配で押し返し、勝利に結び付けた。この勝利に余勢を駆った島津軍は豊後に攻め込み、宗麟を国外に逐う。宗麟は豊臣秀吉に助けを求め、翌年、秀吉が九州出兵に踏み切った。 これ以前に、義弘と島津軍は沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討ち死に追い込んでいる。秀吉との戦いでも、戸次川の戦いで、長宗我部・十河・仙石の連合軍を散々に打ち破っている。結果として、九州は秀吉によって平定され、島津氏もその傘下に入る。義弘は、秀吉の朝鮮出兵にも参戦して、明・朝鮮の連合軍に「鬼島津」として恐怖される存在にもなった。そして秀吉の没後。関ヶ原合戦が起きる。 義弘は兄・義久とは違った行動を取り、西軍に属した。だが、最後まで戦うことをせず、東軍の勝利が決まると、率いていた1300の軍勢ごと、敵中突破を図った。眼前にいる 徳川の精鋭・井伊直政や本多忠勝などの軍勢を睨むと一気に突っ込んだ。一発必中の戦法「捨てかまり」である。これは、1人また1人と道筋に残って地面に立て膝をして鉄砲を構え、追ってくる敵軍の指揮官を狙撃するというものであった。事実、この戦法は井伊直政と家康の4男・忠吉を撃ち抜いている。しかし、この戦闘で義弘の甥・豊久や長寿院盛淳が討ち死にした。無事に大坂まで逃げ延びられたのは義弘はじめ80数人に過ぎなかった。だが、この必死の作戦が家康の恐怖を誘い、合戦後に島津家は領土を減らすことも、義弘などに罰が与えられることもなかった。 義弘は85歳という長寿を生き、元和5年(1619)7月、穏やかに息を引き取った。
江宮 隆之