自己資金「1500万円」でパン屋を始めた、40代「元エリートサラリーマン」の末路…妻と子どもは消息不明、現在は廃業した
「もう二度とやりたくない」
パン屋をしているあいだ、元の奥さんと娘さんに何度か電話をしている。ふたりの誕生日などにだ。でも電話に出ないし、折り返しの連絡は、一度もない。だから、ふたりが今どうしているのかはまったくわからないのだそうだ。 「でも、知ったところで、もうなにもできないですしね。元気でいてくれたらそれでいいです。自分がばかだったから仕方ないです。離婚後に養育費などは一切請求してこなかった。感謝していますよ。それに……実は今の暮らしが、そう悪くはないんです。 だって、パン屋のときほど働かなくても、20万円くらいは入る。“パンが売れなくて赤字”みたいなストレスは一切ない、確実に20万円入るんです。これが、どれほどしあわせかわかりますか? 爽快です。鬱もよくなってきました。 いえ……もちろん、会社をやめて起業したことは後悔していますよ。もし若い子に相談されたら、絶対に起業はすすめません。特に、固定費のかかる起業は……でもそれは、私が失敗したからかもしれませんけどね。 毎月いくら入るか、いくら出ていくか。それを毎日考え続けなければいけないのが自営業でしょう? もう二度とやりたくないですね」 優斗さんは、ずっと、淡々と話し続けていた。その声は、まるで、自分に起きたことを他人事として受け取っているような冷静さがあった。そして私は、彼の「絶対に起業はすすめない」という言葉に強く共感もした。 今まで、何度も「独立したい」「文章を書いて生きていきたい」と相談されたことがある。でも私は、相談されたら止めることにしている。なぜなら、人に相談するくらいの弱い気持ちでは、生活費を稼ぎ続けることなどできないと思うからだ。 「起業してからこっちの15年、恋愛なんて一切したことなかったし、友達ともほとんど会っていないんです。まあ、たまに連絡をとりあうくらいの相手はまだ残っているんでね。そろそろそういう知り合いと会ってみようかなと思うんです。一杯飲屋に行くくらいのお金はあるんでね(笑)。 え、恋愛ですか? うーん……共稼ぎでやってくれる同年代の女性ならと思いますけれどね、縁があればでいいですよ、無理には。恋愛ってお金と時間がかかるでしょう? そうすると、今のお金のまわり方とまた変わってくると思うんです。 そうならない恋愛ならいいですけどね。とにかく、今の穏やかな暮らしを失いたくないです。今はひとまず、鬱も落ち着いてしあわせですから」 ひとつの山をのりこえた達成感があるのだろうか。優斗さんの口調は、どこまでも穏やかで、芯の通った話し方だった。静かだけどゆるぎない、諦らめから生まれた信念ようなものを感じた。
安藤 房子(作家・恋愛心理研究所所長)