亡き木村花さんの母が「花のプライバシーを守るために触れないでほしいと泣いて頼んだ結果がこれですか」と切実に訴えた”報道二次被害”…問われるメディアの品位と倫理
先日、女子プロレス取材歴27年のフリーライター、須山浩継さんの意見を聞いた際、須山さんは、「亡くなられた経緯が、すでに報じられているようなことであれば、改めて公式に詳細を発表する必要はないと思う。もし、それ以外の原因で亡くなったのであれば伝えるべきだと思うが」と主張していた。 筆者も同じ意見だった。 警察当局が「事件性がない」と判断しているのであれば、詳細を発表する必要はない。遺族の意向を最優先すべきだろう。 報道による二次被害の問題は、こういう場面で度々起きる。木村花さんは出演していた恋愛リアリティ番組「テラスハウス」での言動を巡ってのSNSの誹謗中傷に苦しんでいた。野放しになっているSNS上の誹謗中傷について問題提起し、社会問題として議論することは必要だし、ジャーナリズムには、真実を追求し、それを伝える義務と使命はある。 スターダムのエグゼクティブプロデューサーであるロッシー小川氏は、ツイッターで「朝からTVのワイドショーで花の件が特集された。事務所前では大勢のマスコミ陣に私は取り囲まれた。会ったことのない記者からも携帯に電話が鳴り響く。『今日は何か進展はありますか?』と。そんな私を心配して長与千種や北斗晶からメッセージを貰う。持つべきは仲間だ。花のことを考えると心が痛い」と嘆いた。 だが、小川氏には木村花さんが所属していた団体の責任者として常識的な範囲でメディアの取材要請に応じる責務はあると思う。 なぜ「テラスハウス」に出演させたのか。団体としてSNSとの向き合い方や選手の心のケアをどう考えていたのか、などの説明責任だ。だが、遺族の方々や木村花さんを愛してきた人たちにその”任”はない。
ワイドショーや、一部のメディアが好むような、その死因をスキャンダラスに追及することは、遺族を傷つけ関係者の心を痛めることになる。確かに、そういうメディアにもSNSの誹謗中傷問題に一石を投じるためにも詳細な事実を伝え、「木村花さんのような被害者を二度と出さないようにしたい」との、お題目、つまり社会的役割があるのかもしれない。番組制作側の社会的な責任を問う必要はある。そこは内情を暴かねばならないだろう。 だが、今回のようなセンシティブな問題について、どこまで報じるか、どこまで書くのかには線を引く必要はあるのではないか。スターダムの発表通り、木村花さんの死に「事件性はない」と見られているのだ。 木村花さんは、人気のある女子プロレスラーであり、SNSでの誹謗中傷の標的となった「テラスハウス」に出演していた公の人ではあった。だが、「事件性はない」以上、故人であってもプライバシーの問題は発生する。その一線を越えるとジャーナリズムは、単なる視聴率稼ぎ、話題集めのスキャンダル報道に変わる。つまり問われているのは、メディアの品位、倫理の問題である。 プロボクシングのWBA世界ミドル級王者の村田諒太がアマチュア時代に同じような問題に直面して「書かなくていいことをなぜ書くのか」と、メディアに不信感を抱き、激怒していたことがあった。村田が問うのもメディアの品位、倫理の問題だ。 政治家や犯罪者の悪事はメディアが報じなければならないこと、書かなければならないこと、である。メディアには権力や社会悪の監視、批判の役割があり、そのためには独立性が必要で「書かないで欲しい」との圧力に屈することはアウトだ。 今回の件では、SNSでの誹謗中傷の対象となった番組を作ったテレビ局という権力を監視、批判することは必要だろう。 しかし、メディアには真実を伝える一方で、弱者に配慮した「書かなくていいことは書かない」「報じなくてもいいことは報じない」の品位、倫理がなければならないと考える。それは決して独立性の放棄でも、自主的な言論、報道規制でもない。