「この世の地獄を描いて右に出るものはあるまい」官能小説の巨匠・宇能鴻一郎の“真の核心”
「あたし、××なんです」。一人称独白体の官能小説で一世を風靡した作家・宇能鴻一郎(1934~2024)。生前、その邸宅を訪れた経験を持つ作家・エッセイストの平松洋子氏が、宇能文学の核心に迫る。 【画像】官能小説で一世を風靡…若き日の宇能鴻一郎 ◆◆◆
2011年に訪ねた宇能邸
「2024年8月28日 宇能鴻一郎氏逝去」。新聞の訃報欄を目にしたとき、私の脳裏にひとつの感情が浮かんだ――ひとりの人間の長い戦後がようやく終わった。 私が横浜・金沢八景の宇能邸を訪ねたのは13年前、2011年晩夏だった。駅のホームに降り立ってなお半信半疑だったのは、これから会う人物が何十年間もマスメディアに出ておらず、「名のみ高く、その姿を見たものがない唯一の文士」などと語られてきたからだ(このときの会見記「宇能鴻一郎と会って 官能のモーツアルトと呼ばれたい」の初出は「オール讀物」2011年10月号)。 じっさい、屋敷からして現実離れしていた。鬱蒼とした敷地600坪に建つ洋館。靴のまま玄関ホールを進むと、細長い廊下に巨大な虎の毛皮の敷物。通されたのは社交ダンス用の広大なボールルーム。舞台装置さながらの螺旋階段をゆっくりと降りてきた白髪長身の男性は、燕尾服に身を包んでいた。 私を見据える眼鏡の奥の鋭い眼光。 「ようこそいらっしゃいました。お名前はかねがね存じております」 そのとき直観した。語りたいのだ、と。
「のっけから異分子だった」
文壇における宇能鴻一郎は、のっけから異分子だった。昭和36(1961)年、「鯨神」で第46回芥川賞受賞。当時、東京大学大学院人文コース博士課程在学中、27歳。「物語性も豊富で、一種の香気もあり、才気ゆたか」と選評に書いた石川達三は、一抹の不満も述べ、「私のこのおせっかいめいた忠告が宇能君によって理解されないようならば、マス・コミの攻勢に会って、彼はたちまち売文業者に転落して行くだろう」。 予言的中。十数年後、まんまと「売文業者に転落」した宇能鴻一郎は、女性の独白スタイルによってエンターテインメント性、ファルス性に富む文体を編み出して夕刊紙や週刊誌上で膨大な量の官能小説を書き、流行作家として一世を風靡する。 ただし、真の核心はほかの作品群のなかにある。つまり、芥川賞受賞から官能小説家として名を馳せるまでの十数年間、もっとも影響されたという谷崎潤一郎に追随して書き継いだ濃密な小説の数々。例えば「甘美な牢獄」は、筒井康隆による恐怖小説の短篇アンソロジー『異形の白昼』(昭和44年)に収録されており、編輯後記にはこう記される。 「この世の地獄を描いて宇能氏の右に出るものはあるまい。ただ、グロテスクなだけではない。説得力がある。時には郷愁によって、時には異国情緒によって、時には荒々しい破壊衝動によって、読者は否応なしに宇能氏の描くこの世の地獄に誘いこまれてしまうのである」 ◆ 本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(「 宇能鴻一郎 絢爛たる洋館 」)。全文では、宇能の根源に潜むものの考察や、平松氏が身に覚えた「宇能鴻一郎のメッセージ」についても語られています。
平松 洋子/文藝春秋 2025年1月号