ラジオで天皇陛下の声を初めて聞いた。兵士は泣いていたが「これで帰れる」というのが一番だった。汽車と徒歩でたどり着いた故郷は焦土と化し、板戸に消し炭で書かれた伝言を手掛かりにやっと家族と合流できた【証言 語り継ぐ戦争~学校報国隊㊦】
精華高校(現国分中央高校)で英語を教えていた父・吉助は1942年11月、結核のため42歳で亡くなった。母が教職をしながら家族を支えた。 工場で働いていたのは今の高校1年の年齢。子どもが本当に役に立っていたのか疑問だ。尋常小3年のときに日中戦争に入り、6年からは太平洋戦争。物心ついた頃から「お国のために」という軍国教育だった。天長節や紀元節には校長が奉安殿から教育勅語を取り出して朗読するのを頭を下げて聞いていた時代。好きな勉強を満足にできなかったのが悔しい。 終戦後に教員免許を取り、47年から宮内小と富隈小で教えた。「軍国教育は間違っていた」と教わる講習が何度もあった。授業の内容がガラッと変わり戸惑った。自分の好きな勉強やスポーツに打ち込める今の子どもは幸せだ。戦時は何もかも「兵隊さん」優先。子どもに二度とこんなみじめな思いをさせてはいけないと願いながら教壇に立った。孫やひ孫には平和で穏やかな日常を送ってほしい。
教え子らに頼まれ、これまでに2回、海軍工廠で働いた経験を講演した。聞いた人から感謝の手紙や電話を多くもらった。「人前では話したくない」と断ってきたが、後世に自らの思いを伝えるよい機会になった。戦争のむなしさや愚かさを感じてもらえたらうれしい。 (2024年9月15日付紙面掲載)
南日本新聞 | 鹿児島
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