人類が争いを回避するヒントはここに隠されていた…とあるサルが獲得した「驚きの能力」
ゲラダヒヒというヒント
また、この非暴力主義は、群の内部だけではなく、外部に対しても示される。大きな群同士が偶然出会い、互いに何事もなかったかのように融合して、悠々と餌を食べ合っている姿は感動的でさえあるという。 すなわち、ゲラダヒヒは、家族、群にとどまらず、こうして一時的にではあるが、いくつかの群が集まって出来るさらに大きな地域共同体とでもいうべき「社会」までをも形成するのだ。 逆に言えば、ゲラダヒヒにはなわばり意識がなく、したがって他のサルに比べても闘争的ではないために、生存競争に敗れ、気候変動などもあいまって海抜三千メートルのエチオピアの高地に追いやられたとされている。動物地理学上、このような種は「残存種」と呼ばれる。彼らは、他の種が近づくことの出来ない断崖絶壁を住処とし、穏やかに、ひっそりと暮らしている。 この特異な集団形成を可能にしているのは、ゲラダヒヒの言語能力だ。言語といっても人間のそれと単純には比較出来ないが、河合先生の話では、ゲラダヒヒの声、表情、身振り手振りは大変複雑で、見ていて少しも飽きないのだそうだ。 この特殊なサルに関しては、三十種類以上の音声が観察されている。また、色々な意味の音声を単独で発声するだけではなく、ときにそれを組み合わせて使用している例もある。 力による支配が一般的な他のサルの社会では、細かいコミュニケーションのための言語は必要とされない。チンパンジーやゴリラのようなapeでさえも相手を威嚇するための叫びや、服従を示す鳴き声だけで事足りる。だがゲラダヒヒのような重層的で平和な社会を築くためには、どうしても複雑な音声コミュニケーションが必要とされる。現にゲラダヒヒの持つ伝達メッセージのなかには、他者を安心させる、なだめる、懇願するなど、人間で言えば「まぁまぁまぁ」「いやいや、そこはさ」といった曖昧な表現が多く存在する。他のサルのコミュニケーションが、喜怒哀楽といった激しい感情表現のレベルにとどまっているのとは大きな差異がある。 繰り返すが、ゲラダヒヒは、進化の系統の上からは、チンパンジーやゴリラに比べて、ヒトから遠い存在なのだ。だから、なぜゲラダヒヒのみが、このように特殊な社会を形成し、また特殊な音声コミュニケーションを獲得したのか、突き詰めたところは判らない。ただ平和的で複雑な社会がコミュニケーションの高度化を要請し、また逆に、その高度化が、一層複雑な社会の形成に寄与したことは間違いないだろう。 このとき対談の最後に河合先生は、自らゲラダヒヒの鳴き声を真似して下さった。 「オウオウ」 「ウグウグ」 「グニャグニャ」 「グワーグオー」 と様々な声音を、先生は本当に楽しそうに、一つ一つ説明しながら聞かせてくださった。 続く
平田 オリザ