当事者ではない福永壮志監督が、なぜマイノリティーを描くのか 「アイヌプリ」
「アイヌ全体ではない」一家族の物語
撮影クルーはカメラマン、録音技師、運転手、福永監督の4人。日が暮れた後のマレプ漁の撮影などは暗闇の中で、ギリギリまでライトを使わずに撮っている。シゲさんだけでなくクルーも、楽しんでいるような雰囲気が漂う。福永監督が撮影の日々を語る。「どれだけ調べても自分からは絶対に出てこない言葉に出合うなど、フィクションとは違うドキュメンタリーの面白さを何度も感じた」 インタビューの途中、福永監督が強調したことがある。「映画はシゲさんやその周囲の人の話で、アイヌ全体のことでは決してない。こうした人もいるということ。『アイヌモシリ』から10年近くかかわっているが、アイヌについて知らないことはたくさんある」。その上で、こう話す。「アイヌは一つの成熟した文化で、何事にも感謝を忘れないとか、いろいろなものに神様が宿っているといった考えがベースにある。一方で、合理的な面もある」。2本の映画を通じてアイヌの友人や知人を得たからこその言葉だろう。
偏見生む可能性自覚しつつ
自身の立場をネーティブアメリカンと白人の関係になぞらえ「アイヌに対する和人」と位置付ける。「僕がかっこいいとか美しいとか思ったことを過剰に表現することで偏見を生んでしまったり、アイヌの人たちが違和感を持ったりする危険があった」と細心の注意を払った。そのため、編集にかなりの時間を要したという。 例えば、正装を着た踊りのシーンがある。「正装は儀式や神事で踊る時に着るものだが、映画では練習のシーンで着てもらった。かっこよく撮れたものの、撮影のために正装していいのか確認のつもりでシゲさんに見せたら『かっこつけてるシーンだからかっこよく映っていればいい』と言われた」。こうした経験を繰り返しながら慎重に作りあげた。 「非当事者が被写体を選ぶ難しさを感じた。コミュニケーションをとることでしか見えてこないものもあった」。といって、はれ物に触るような姿勢では映画として表現できない。「信頼してもらい、確認する大切さも学んだ」。踊りのシ-ンは残ったが、正装を身に着けたポートレートのショットはすべて外したという。